日向坂46影山優佳が好きなゴールは?
実はサンフレッチェ広島の中でもすごく好きなゴールがあって、2012年の横浜F・マリノス戦かな?青山敏弘選手がハーフウェーラインくらいから64mのロングシュートを決めて、当時はいろんなニュースで話題になりました。ただニュースでは64mという数字がすごい、ハーフウェーラインから打ったのがすごいって言われていたんですが、私はボールをもらった時の青山選手の目がすごく印象的でした。ボールをもらう前からボールをもらう瞬間にかけて、もうゴールを見ているんですよね。ボールは真後ろから来ているのに、すぐに前を向いて、GKが前に出ていることを把握しているんです。だからシュートを打てる。どの場所にいても常にゴールの意識があることを感じたといいますか、つまりは勝つために試合をしているんだということをあらためて感じて、そのことに気がつけた時にすごく興奮しました。
サンフレッチェ新本拠地 建設始動 広島市、24年の開業目指す
サッカーJ1・サンフレッチェ広島の新たな本拠地となる広島市のサッカースタジアム建設が動き始めた。事業主体の市と、広島県、広島商工会議所が今春に基本計画を策定、本年度から設計・施工の準備を進めていく。中心市街地に立地する「街なかスタジアム」の魅力を高めるため、民間のアイデアも積極的に採り入れ、2024年の開業を目指す。
「年間を通じて多くの人が訪れるにぎわい拠点」。基本計画はスタジアムの目指す姿をこう掲げる。
計画では、同市中区の中央公園広場(8・6ヘクタール)を東西に分け、西側に3万人を収容できるスタジアム、東側に子育てや健康をテーマにした広場を一体的に整備する。
スタジアムは、サッカー以外のスポーツやコンサートなど多目的利用への対応を重視。広場は幅広い年代が交流できる空間づくりがテーマで、温浴施設やランニングコース、カフェなどの整備が想定される。
「スタジアムで行われるJリーグの試合は年間二十数試合。試合がない日もにぎわいや収益を生み出す工夫が欠かせない」と市スタジアム建設部の担当者が言う。概算事業費は230億~270億円。国の交付金をはじめ、市や県の負担や地元経済界の寄付、市民の募金などで賄う。
スタジアムは設計と施工をまとめて発注する「デザイン・ビルド方式」を採用。広場は、都市公園内で施設の整備と運営を民間事業者に任せる「パークPFI」と呼ばれる手法を検討している。「いずれも事業者の裁量が大きく、コスト削減効果に加え、施設のデザインや多機能化のプランなど柔軟なアイデアが期待できる」と同部。本年度中に設計や施工内容の提案を受け、事業者を選定する。
都心への3万人規模のスタジアム整備は、アクセスルートの確保が大きな課題となる。約8割がスタジアム南側の路面電車の電停や新交通システム「アストラムライン」の駅、バスセンターから徒歩で来場すると想定しており、接続道路の拡幅やペデストリアンデッキ(歩行者専用橋)の整備で混雑の回避を図る。
スタジアムは、商業施設やオフィスが集積する紙屋町・八丁堀地区や原爆ドームがある平和記念公園に近接する。同部は「スタジアムは中心市街地活性化に大きな役割を期待されている。市内の商業施設や観光拠点と連携し、利用者の回遊性を高める施策も検討していきたい」としている。
「年間を通じて多くの人が訪れるにぎわい拠点」。基本計画はスタジアムの目指す姿をこう掲げる。
計画では、同市中区の中央公園広場(8・6ヘクタール)を東西に分け、西側に3万人を収容できるスタジアム、東側に子育てや健康をテーマにした広場を一体的に整備する。
スタジアムは、サッカー以外のスポーツやコンサートなど多目的利用への対応を重視。広場は幅広い年代が交流できる空間づくりがテーマで、温浴施設やランニングコース、カフェなどの整備が想定される。
「スタジアムで行われるJリーグの試合は年間二十数試合。試合がない日もにぎわいや収益を生み出す工夫が欠かせない」と市スタジアム建設部の担当者が言う。概算事業費は230億~270億円。国の交付金をはじめ、市や県の負担や地元経済界の寄付、市民の募金などで賄う。
スタジアムは設計と施工をまとめて発注する「デザイン・ビルド方式」を採用。広場は、都市公園内で施設の整備と運営を民間事業者に任せる「パークPFI」と呼ばれる手法を検討している。「いずれも事業者の裁量が大きく、コスト削減効果に加え、施設のデザインや多機能化のプランなど柔軟なアイデアが期待できる」と同部。本年度中に設計や施工内容の提案を受け、事業者を選定する。
都心への3万人規模のスタジアム整備は、アクセスルートの確保が大きな課題となる。約8割がスタジアム南側の路面電車の電停や新交通システム「アストラムライン」の駅、バスセンターから徒歩で来場すると想定しており、接続道路の拡幅やペデストリアンデッキ(歩行者専用橋)の整備で混雑の回避を図る。
スタジアムは、商業施設やオフィスが集積する紙屋町・八丁堀地区や原爆ドームがある平和記念公園に近接する。同部は「スタジアムは中心市街地活性化に大きな役割を期待されている。市内の商業施設や観光拠点と連携し、利用者の回遊性を高める施策も検討していきたい」としている。
【THIS IS MY CLUB】“持っている工藤浩平”に期待してほしい|工藤浩平
DAZNと18のスポーツメディアで取り組む「DAZN Jリーグ推進委員会」が、その活動の一環としてメディア連動企画を実施。Jリーグ再開に向けて、「THIS IS MY CLUB -FOR RESTART WITH LOVE- Supported by DAZN Jリーグ推進委員会」を立ち上げた。サッカーキングでは、で在籍最年長となる選手に“クラブ愛”について語ってもらった。
インタビュー・文=細江克弥
写真=ジェフユナイテッド千葉
写真=ジェフユナイテッド千葉
誰が呼んだか「姉崎のマラドーナ」は、軽快なステップと独特のリズムによるパスワーク、さらには“見えているところ”とそれを生かす精度の違いで、35歳になった今でも時々チームメイトを驚かせる。
昨シーズン限りで佐藤勇人が引退したことによって、気付けば自身の立ち位置がガラリと変わった。“最年長”は佐藤兄弟の弟・寿人だが、「在籍期間最長選手」は通算9年半の工藤浩平だ。小学校5年時に加入したスクール時代から考えれば、確かにジェフユナイテッド千葉に関わる時間は誰よりも長く、思い入れも強い。
ただ、あまり多くを語るタイプじゃない。現在はフロントの一員となった佐藤勇人は少しニヤけてこう言った。
「浩平、ちゃんとしゃべりました?」
だから「工藤浩平とジェフ千葉」について、いろいろな角度から聞いてみた。すると彼の口から出てきた言葉は、佐藤勇人の心配をよそにはっきりとした“ジェフ愛”に満ちていた。
35歳にして、もしかしたら初めて見られるかもしれない“持っている工藤浩平”は、今シーズンのジェフ千葉における絶対的なキーマンだ。
――工藤選手、実はジェフにおける「在籍期間最長選手」だそうです。
工藤 いや、正直、驚きました(笑)。確かにアカデミー時代から考えればかなり長いですけれど(編集部注:小学5年生から在籍)、僕の場合、プロになってからは“外”にいた期間もかなり長いので。このインタビューのことを聞いた時も「え? 俺?」という感じでした。ジェフに対する思い入れは強いけれど、「いない期間が長かった」という気持ちのほうがさらに強くて。
――そりゃそうですよね。ジェフの戻ってきたのは2018年の夏。7年半のブランクがありました。
工藤 長いですよね。“いなかった期間”が。だからちょっと、「最長」と言われると不思議な感覚はあるんですけど。
――でも、そう考えるとジェフに戻ってくるという決断は簡単じゃなかったのでは? 34歳になる年だったし、きっと、「古巣に戻って引退に向かう」という見方をする人もいましたよね。
工藤 間違いなく、そういう見方をする人はいたと思います。年齢を考えれば仕方がない。でも、まあ……。やっぱり、小学生の頃からジェフのエンブレムを身につけてサッカーをしてきて、ジェフに対する感謝もあったし、“生え抜き”という意識も自分の中にはずっとあって。ジェフで初めてJ1のピッチに立たせてもらったし、ナビスコカップ(現JリーグYBCルヴァンカップ)を2度も取って、J2降格も味わって。そういう状況で外に出てしまったけれど、なんて言うんだろう……。そもそも、出ていく時は「戻ってくることは2度とないだろうな」と思っていたんです。
――どうして?
工藤 オファーがある可能性が、ゼロに近いと思っていたので。もちろん、ジェフのことはずっと気になっていました。地元(市原市)に帰れば意識しなくてもジェフの雰囲気を感じますから。ジェフの選手や昔の仲間に会えば「戻って来いよ」と言われるし、「戻りたいですよ」なんて半分冗談で返すけれど、現実的にオファーが来ることはないと思っていたんです。
――あの……昔話を掘り下げるのもアレですけれど、そもそもどうして移籍したんですか?
工藤 移籍する数年前から、オファーはちょこちょこもらっていたんです。でも、それを断って、自分としてはJ2に落ちてもジェフで頑張ろうと思っていました。で、J2で1年戦って、上がれなくて、そのタイミングでクラブから受けた評価が、ちょっと、どうしても、うーんという感じで……。
――納得できなかった?
工藤 はい。だったら、ここを出て、違うところでチャレンジしてみようと。その時に初めて。それまでは、「ずっとジェフでやるんだろうな」と思っていましたから。
――でも、実際のところ、当時はそういうこともありましたよね。うまくいっていない感じ。ただ、“生え抜き”である工藤選手の移籍は、サポーターの皆さんにとってもかなり複雑な気持ちだったのではないかと。
工藤 それが分かっていたから、難しかったですね。移籍することを決めてからも、街で会ったサポーターさんに「来年も頑張ってください」と言われて、心が痛くて。どう思われても仕方ないけれど、そこで舞台裏の話をするわけにもいかないですから。でも、やっぱり、あの時クラブから受けた評価に対して、自分自身がめちゃくちゃ悔しかったんだと思います。小学生の頃からお世話になってきたコーチに挨拶しに行った時も、多分、俺、泣いちゃってますから。
――多分(笑)。
工藤 はい、多分(笑)。
――ところで急に話を変えますけれど、どうしても聞きたいことがあって。
工藤 はい。
――「奇跡の残留」の年。2008年。ゴールデンウィークの最後にやった浦和レッズ戦、覚えてませんか?
工藤 レッズ戦……。ああ、はい。確かアウェイですよね?
――そう。あの試合、僕がこれまでジェフを見てきた13年の中で、圧倒的に一番悔しかった試合なんです。で、当時の取材ノートを見たらそれを思い出しちゃって。あの試合、普段は感情を全く表に出さない工藤選手も、めちゃくちゃ悔しそうだったことを思い出しました。
工藤 覚えていますよ。
――結果は0-3の完敗。その上、最後の10分ぐらいはずっとフラフラとボールを回されて……。自分は見ているだけなのに、それがすごく屈辱的で。
工藤 うん。めちゃくちゃ覚えてます。めちゃくちゃ悔しかったですね。確か、試合後に坂本(將貴)さんと間瀬(秀一/当時コーチ)さんと一緒に、「こんなに悔しい試合はない」って、本気で怒りながらそう話していたんですよ。そんなこともありました。
――あの頃って、どんなことを考えてました? そういう試合があったり、奇跡の残留があったり、J2降格があったり。つまり、メンタル的にはかなり忙しかったと思うんです。
工藤 バタバタしたし、苦しかったし、難しかったですよね。あの頃の自分はちゃんとスタメンで試合に出るようになって、7番をもらって、10番をもらって、そういうタイプじゃないのに「自分がやらなきゃ!」と思うようになって。それがキツかったかもしれません。今ぐらいの年齢になると、アカデミーの子にアドバイスしなきゃいけないこともあるじゃないですか。例えば、「調子が良くない時の気持ちの作り方」とか。そういう時は、あの頃の話をするんです。「自分らしくないことで頑張り過ぎてしまった」と。
――そう考えると、移籍という決断は決してネガティブなものじゃなかった。
工藤 京都、広島、松本と、行った先々で自分に合うサッカーを経験させてもらったし、本当にのびのびとプレーさせてもらいました。今になって振り返ると、毎年毎年、いろいろな吸収があって、だからずっと「成長したい」という気持ちが途切れなかった。いろいろな土地で、いろいろな人に出会ったり、いろいろな監督の下でサッカーして、それを少しずつ吸収して成長することができたという実感がある。だから、「あの時、ジェフを離れて良かった」とも思います。
――分かります。でも、僕自身は、「ジェフを離れるならちゃんと日本代表になってよ」と思っていました。
工藤 ありがとうございます(笑)。
――ところで、水内猛さんのYouTubeチャンネルって見たことあります?
工藤 ああ、ありますよ。
――中島浩二さんの回は?
工藤 それはまだです。
――ベストイレブンに工藤選手の名前があって、それがうれしくて。やっぱり、工藤選手のことを「天才的」と言っていました。そういう人って、実は結構いるじゃないですか。
工藤 いや、まれに、本当にちょこっといるくらいかなと。決して全国的じゃないです(笑)。
――いや、でも、僕もそう思う一人で。でも、もしそうだとしたら、“天才”工藤浩平にとっての壁はなんだったんだろうと考えるんです。
工藤 深い話ですね。うーん……。でもやっぱり、自分で思うのは、結局、ツメが甘いんだろうなって。「ここで勝てば」とか「ここで点を取れば」とか、そういう時に結果を残せなかった。運を引き寄せられなくて、惜しいところで終わってしまった。曖昧な表現になっちゃいますけど、つまり“持ってない”というか。
――実は、さっき話した取材ノートが面白くて。例の浦和戦。後半25分。下村東美からのラストパスを受けて決定機を迎えた工藤浩平はそれを決められなかった。僕のノートには「外しやがった」と書いてありました(笑)。
工藤 ハハ(笑)。そのノート最高ですね。いや、でも、本当にそういうことだと思うんです。大事なところでは絶対に決めなきゃ、その“上”にはいけない世界ですから。
――話を戻しますね。僕は、工藤選手がジェフに戻ってきた2018年、8年ぶりのフクアリ(フクダ電子アリーナ)となった最初の試合のことが忘れられません。
工藤 ヴァンフォーレ甲府戦(第25節)ですよね。
――8年ぶりに戻ってきて、少なからず疑いの目もあった中で、本当に素晴らしいパフォーマンスでした。33歳でもめっちゃ走るし、どんどんボールを受けて、配って、1人でリズムを作っていた。あれは本当にカッコ良かった。
工藤 あのタイミングで帰ってきて、年齢的なことも含めて「どう思われるんだろう」と思っていたし、京都や松本にいた時はフクアリでブーイングされたこともあったので、気持ちは入っていました。あの試合、ジェフに戻ってきて最初の試合で、自分自身のことをすべて判定されると思ってたんです。いいか悪いか。使えるのか使えないのか。
――特別なゲームだった。
工藤 そうですね。結果的に勝てたし、自分自身のプレーも悪くなかったし、できればそのまま使ってほしかったですけど(笑)。まあ、それは冗談ですけど、やっぱり“持ってない”ということですよね。8年ぶりのフクアリだったのに、黄色のユニフォームじゃなく特別仕様のサマーユニフォームでしたから。
――(笑)。でも、あの試合があったから、恐らくジェフのサポーターの皆さんも「工藤浩平はまだいける」と思った気がします。だからこそ、あれから2年後の今でも同じように期待していると思うし、プレーする姿を見たいと思っているんじゃないかと。
工藤 そうだったらうれしいし、もっと見せないといけないですよね。やれるところを。
――どうですか? 個人とチームの現状は。未知の状況と向き合っていると思いますが。
工藤 チームについては、すごくいい状態にあると思います。今シーズンから監督が代わって、キャンプで厳しいトレーニングをして、苦しみながらも開幕戦で勝って、いい流れを作って。そういう時にこういう状況になってしまったけれど、みんなが気持ちを切らすことなくトレーニングして再開に備えてました。「今年J1に上がるんだ」という気持ちは途切れてません。
――今シーズンのあまりにも変則的なJ2リーグを戦い抜いて、しかも“結果”を出すために必要なことは?
工藤 “誰が試合に出ても”という状態を作ることが大事だと思います。ジェフで一緒にプレーした山岸智がサンフレッチェ広島でプレーしていた頃、ほとんど出場機会がなかったのに与えれたチャンスで決勝ゴールを奪って優勝に貢献したシーズンがありましたよね。やっぱり、あれができる選手が1人でも多くいるチームが強いし、最後に結果を残すのはああいうチームだと思うんです。僕自身、今はまだサブ組でプレーすることが多いけれど、チャンスが来た時に結果を残したい。そういう存在になりたいと思っています。
――“持っている工藤浩平”を発揮できるか。
工藤 ホントにそう。今まで発揮できなかったので、ジェフがJ1に上がる年に、ついにそういう姿を見せられたらいいなと思います。大好きなジェフをなんとしてもJ1に上げたいという気持ちが強いので、“持っている工藤浩平”に期待してください。
歴代J2得点王をおさらい! 助っ人が多く名を連ねる中にあの日本代表MFの名も!
新型コロナウイルス(CODID-19)の影響により試合開催を延期しているJ2リーグだが、27日からJ1リーグに先んじて再開を迎える。
厳しい過密日程が予想される今シーズンのJ2リーグ。昇格枠も2つに減り、今まで以上に熾烈な昇格争いが繰り広げられることとなるだろう。
そんな昇格争いで大事になってくるのが、やはりチームの得点力。大きな得点源がチームにいることは、昇格に近づく手立てとなる。そこで今回は、再開に向けて歴代のJ2の得点王をご紹介したい。
1999シーズンからスタートしたJ2リーグ。初代J2得点王となったのは日本代表歴もある神野卓哉だ。横浜マリノスやヴィッセル神戸でプレーした神野は、当時大分トリニータに在籍。36試合19得点の活躍を見せ初代得点王に。翌年はJ1のFC東京へと移籍した。
日本人得点王でスタートしたJ2リーグだったが、その後は8シーズンに渡って外国人選手が得点王のタイトルを獲ることに。懐かしい名が多く並ぶが、その中でも目を引くのが今も上海上港で活躍する元ブラジル代表FWフッキだろう。
かつては、コンサドーレ札幌(現北海道コンサドーレ札幌)川崎フロンターレ、東京ヴェルディでプレーしたフッキだが、2007シーズンはJ2歴代最多タイとなる37得点を挙げ、大暴れした。
2008年からは一転して日本代表クラスの選手たちが得点王に輝くこととなる。現在レアル・サラゴサでプレーする香川真司もその内の一人で、背番号「8」を着用した2009シーズンはC大阪で27得点を記録しチームのJ1昇格の大きな原動力に。そして2010年にドルトムントへと移籍を果たし、ヨーロッパでプレーを続けている。
2011年に豊田陽平が得点王になってからは、再び外国人選手が得点王になることが増えている。2015年の得点王ジェイ(現北海道コンサドーレ札幌)や2016年の得点王である鄭大世は今もJ1の舞台で活躍を続けている。
そして、昨シーズンのJ2得点王であるブラジル人FWレオナルドは今シーズンから浦和レッズへと完全移籍し、J1の舞台へステップアップを果たした。
必ずしも得点王とJ1昇格は直結しないものの、昇格争いをする上では重要な要素。果たして今シーズンは誰が得点王に輝くのか。第1節終了時では、ハットトリックを達成した徳島ヴォルティスの西谷和希がトップに立っている。
◆歴代J2リーグ得点王
1999年:神野卓哉(大分トリニータ)19得点/36試合
2000年:エメルソン(コンサドーレ札幌)31得点/34試合
2001年:マルコス(ベガルタ仙台)34得点/40試合
2002年:マルクス(アルビレックス新潟)19得点/36試合
2003年:マルクス(アルビレックス新潟)32得点/41試合
2004年:ジュニーニョ(川崎フロンターレ)37得点/39試合
2005年:パウリーニョ(京都パープルサンガ)22得点/32試合
2006年:ボルジェス(ベガルタ仙台)26得点/41試合
2007年:フッキ(東京ヴェルディ)37得点/42試合
2008年:佐藤寿人(サンフレッチェ広島)28得点/40試合
2009年:香川真司(セレッソ大阪)27得点/44試合
2010年:ハーフナー・マイク(ヴァンフォーレ甲府)20得点/31試合
2011年:豊田陽平(サガン鳥栖)23得点/38試合
2012年:ダヴィ(ヴァンフォーレ甲府)32得点/38試合
2013年:ケンペス(ジェフユナイテッド千葉)22得点/38試合
2014年:大黒将志(京都サンガF.C.)26得点/42試合
2015年:ジェイ(ジュビロ磐田)20得点/32試合
2016年:鄭大世(清水エスパルス)26得点/37試合
2017年:イバ(横浜FC)25得点/41試合
2018年:大前元紀(大宮アルディージャ)24得点/41試合
2019年:レオナルド(アルビレックス新潟)28得点/38試合
厳しい過密日程が予想される今シーズンのJ2リーグ。昇格枠も2つに減り、今まで以上に熾烈な昇格争いが繰り広げられることとなるだろう。
そんな昇格争いで大事になってくるのが、やはりチームの得点力。大きな得点源がチームにいることは、昇格に近づく手立てとなる。そこで今回は、再開に向けて歴代のJ2の得点王をご紹介したい。
1999シーズンからスタートしたJ2リーグ。初代J2得点王となったのは日本代表歴もある神野卓哉だ。横浜マリノスやヴィッセル神戸でプレーした神野は、当時大分トリニータに在籍。36試合19得点の活躍を見せ初代得点王に。翌年はJ1のFC東京へと移籍した。
日本人得点王でスタートしたJ2リーグだったが、その後は8シーズンに渡って外国人選手が得点王のタイトルを獲ることに。懐かしい名が多く並ぶが、その中でも目を引くのが今も上海上港で活躍する元ブラジル代表FWフッキだろう。
かつては、コンサドーレ札幌(現北海道コンサドーレ札幌)川崎フロンターレ、東京ヴェルディでプレーしたフッキだが、2007シーズンはJ2歴代最多タイとなる37得点を挙げ、大暴れした。
2008年からは一転して日本代表クラスの選手たちが得点王に輝くこととなる。現在レアル・サラゴサでプレーする香川真司もその内の一人で、背番号「8」を着用した2009シーズンはC大阪で27得点を記録しチームのJ1昇格の大きな原動力に。そして2010年にドルトムントへと移籍を果たし、ヨーロッパでプレーを続けている。
2011年に豊田陽平が得点王になってからは、再び外国人選手が得点王になることが増えている。2015年の得点王ジェイ(現北海道コンサドーレ札幌)や2016年の得点王である鄭大世は今もJ1の舞台で活躍を続けている。
そして、昨シーズンのJ2得点王であるブラジル人FWレオナルドは今シーズンから浦和レッズへと完全移籍し、J1の舞台へステップアップを果たした。
必ずしも得点王とJ1昇格は直結しないものの、昇格争いをする上では重要な要素。果たして今シーズンは誰が得点王に輝くのか。第1節終了時では、ハットトリックを達成した徳島ヴォルティスの西谷和希がトップに立っている。
◆歴代J2リーグ得点王
1999年:神野卓哉(大分トリニータ)19得点/36試合
2000年:エメルソン(コンサドーレ札幌)31得点/34試合
2001年:マルコス(ベガルタ仙台)34得点/40試合
2002年:マルクス(アルビレックス新潟)19得点/36試合
2003年:マルクス(アルビレックス新潟)32得点/41試合
2004年:ジュニーニョ(川崎フロンターレ)37得点/39試合
2005年:パウリーニョ(京都パープルサンガ)22得点/32試合
2006年:ボルジェス(ベガルタ仙台)26得点/41試合
2007年:フッキ(東京ヴェルディ)37得点/42試合
2008年:佐藤寿人(サンフレッチェ広島)28得点/40試合
2009年:香川真司(セレッソ大阪)27得点/44試合
2010年:ハーフナー・マイク(ヴァンフォーレ甲府)20得点/31試合
2011年:豊田陽平(サガン鳥栖)23得点/38試合
2012年:ダヴィ(ヴァンフォーレ甲府)32得点/38試合
2013年:ケンペス(ジェフユナイテッド千葉)22得点/38試合
2014年:大黒将志(京都サンガF.C.)26得点/42試合
2015年:ジェイ(ジュビロ磐田)20得点/32試合
2016年:鄭大世(清水エスパルス)26得点/37試合
2017年:イバ(横浜FC)25得点/41試合
2018年:大前元紀(大宮アルディージャ)24得点/41試合
2019年:レオナルド(アルビレックス新潟)28得点/38試合
J1広島 選手、スタッフ、幹部ら59人全員陰性
サンフレッチェ広島は24日、Jリーグが19日に行ったPCR検査の結果、トップチームの選手やスタッフ、クラブ幹部ら計59人、すべてが陰性だったことを発表した。
新型コロナウイルスの感染者がいなかったことを受け、7月4日のJ1再開初戦となるヴィッセル神戸戦(アウェー)へ、万全の態勢で臨めるとしている。
広島がJ2岡山に4発快勝、19歳東俊希が2ゴール
<練習試合:広島4-2岡山>◇20日◇広島広域公園第1球技場◇45分×4
サンフレッチェ広島は20日、広島市の広島広域公園第1球技場でJ2ファジアーノ岡山と練習試合(45分×4)を行った。結果は広島が4-2で勝利を収め、7月4日のJ1再開初戦、ヴィッセル神戸戦(アウェー)へ順調な仕上がりを見せた。
試合は1本目にFWレアンドロ・ペレイラ(28)が先制点を挙げ、同点で迎えた3本目にFW鮎川峻(18)が勝ち越し点を決め、さらにMF東俊希(19)が2発を決めて突き放した。
13日にはJ3ガイナーレ鳥取に2-0で勝利するなど好調を維持。改めて今季の優勝候補の一角として注目されそうだ。
広島MF野津田が一般女性と結婚「一層責任感を」
サンフレッチェ広島は20日、MF野津田岳人(26)が同日に一般女性と婚姻届を提出したことを発表した。相手の名前や年齢など詳細は非公表。
野津田は「家族のためにも、より一層、責任感を持って頑張りたいと思います。今後とも応援をよろしくお願いいたします」とコメントした。
6日に26歳の誕生日を迎えた野津田は、広島ジュニアユースから下部組織に在籍し、ユース時代も得意の左足で数々のタイトルを獲得。Jリーグでは通算143試合17得点の成績を残している。本来は2列目など攻撃的な選手だが、今季はボランチも務めるなど活躍の場を広げている。
広島MF野津田岳人(2019年3月1日撮影)
森保一は、現代の西郷隆盛!? 広島・黄金時代を築いた「名将の第一条件」とは?
7大会連続のFIFAワールドカップ出場を目指すサッカー日本代表は、新型コロナウイルスの影響で休止している活動を9月から再開する意向が示されている。長く厳しいアジアの戦いに挑むそのかじ取りは、過去に類を見ないほどに難しいものになるだろう。
チームを託されている森保一は、サンフレッチェ広島を4年間で3度のリーグ優勝に導いたことで知られる。なぜルーキー監督ながらクラブの黄金期を築くことができたのか? 「ミハイロ・ペトロヴィッチ監督がつくった攻撃に守備のエッセンスを加えたから」というのは、あくまで一つの側面でしかない。1995年から広島を取材する中野和也氏が、日本の歴史を大きく動かした“維新の三傑”西郷隆盛にも通ずるその手法と、知られざるパーソナリティを紐解く。
チームを託されている森保一は、サンフレッチェ広島を4年間で3度のリーグ優勝に導いたことで知られる。なぜルーキー監督ながらクラブの黄金期を築くことができたのか? 「ミハイロ・ペトロヴィッチ監督がつくった攻撃に守備のエッセンスを加えたから」というのは、あくまで一つの側面でしかない。1995年から広島を取材する中野和也氏が、日本の歴史を大きく動かした“維新の三傑”西郷隆盛にも通ずるその手法と、知られざるパーソナリティを紐解く。
優勝を決める試合になったら、広島の人々は……
「もし、もしですよ、サンフレッチェが優勝したら、広島ビッグアーチって満員になるんですかね?」
2010年、J1に戻ってから2年目のある日、クラブのスタッフが寂しそうにポツリと言葉を落とした。僕は間髪を入れず、答えた。
「絶対に間違いないから」
確信があったわけではない。1995年からサンフレッチェ広島の取材を始めているが、スタジアムが満員になったことはなかった。1993年から1994年にかけて、広島ビッグアーチ(広島広域公園陸上競技場/現・エディオンスタジアム広島)が満員大入りになった姿をテレビでよく見かけたが、そんな歴史があったことすら、もう想像できない。公称5万人の大スタジアムに6000人台のサポーターしか入らない時代もあった。今も、平日ナイターのカップ戦では5000人を割り込むこともある。
それでも、もしリーグ優勝をここで決めるという試合になったら、絶対に広島の人々は来てくれる。2003年、J1 復帰への分水嶺となった第35節・アルビレックス新潟との首位決戦では2万6158人のサポーターが来てくれた。2008年、J2に降格しても平均観客動員数は1万人を上回った。確かに2009年から2010年と観客動員数は減少していたが、優勝となれば話は違う。
そのスタッフは「そうなりますかねぇ……」と沈んだままだったが、その2年後、その答えが出るとはお互いに思ってもいなかった。
2012年11月24日、広島が泣いた日
2012年11月24日。迎えたJ1リーグ第33節。雨が降りしきる中、広島ビッグアーチに向かう人の波は、ずっと、ずっと途切れなかった。チケットは完売。集まったサポーターは3万2724人。緩衝帯を挟んだセレッソ大阪のサポーター席を除き、スタンドは紫で埋まった。勝てばJリーグ創設20年目にして初めての優勝を手にする可能性がある。売れる席はすべて売り尽くして、スタジアムは満員になった。5万人はあくまで公称。Jリーグの基準では3万人強で満員になることが初めて明確になった。
試合前に虹が出た雨上がりのピッチ。広島が4得点を重ねるまでは晴れていた空は、試合終盤には再び雨が降っていた。サポーターはずぶ濡れになりながら、その時を待つ。優勝を争っていたベガルタ仙台は新潟にリードされていたことは、ほとんどの人が知っていた。あとは、終了を待つばかりだ。その時のことを、筆者はかつてJ's GOALというサイトで、こうレポートしている。
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ボールがタッチラインを割る。家本(政明)主審の長いホイッスル。勝った。森﨑和幸はベンチを見る。メンバー外の選手たちが、ピッチ横で待っている。
微妙な沈黙、その時間は12秒。
ミキッチが、近くにいた報道陣に確認した。「(仙台戦は)フィニッシュ?」。
「終わり?」。西岡大輝も確かめる。
ミキッチが、近くにいた報道陣に確認した。「(仙台戦は)フィニッシュ?」。
「終わり?」。西岡大輝も確かめる。
一気だった。全員がピッチ内になだれこんだ。その様子を見て、サポーターもまた、確信した。優勝だ。日本一だ。タイトルだっ!!!!
佐藤寿人は顔を手で覆い、背中を震わせて、頭をグラウンドに押しつけた。森﨑浩司はピッチに大の字となり、西川周作は両手を天に突き上げた。一人歓喜の輪から離れた髙萩洋次郎は東日本大震災の被災者のために、両手を握りしめて、ずっとずっと、祈りをささげた。
泣いた、泣いた、泣いた。
選手も、スタッフも、サポーターも。
20年間の想いを込めて、積み重ねた辛苦を噛み締めて、広島が泣いた。
「皆さんの応援のおかげで、われわれは日本一になれました!! うれしいです!!!」
森保一の叫びが、広島を覆っていた雨雲を切り裂いた。苦闘の歴史を突き破る歓喜の咆哮。永遠に続くかのような感激に、広島ビッグアーチは震え続けた。
選手も、スタッフも、サポーターも。
20年間の想いを込めて、積み重ねた辛苦を噛み締めて、広島が泣いた。
「皆さんの応援のおかげで、われわれは日本一になれました!! うれしいです!!!」
森保一の叫びが、広島を覆っていた雨雲を切り裂いた。苦闘の歴史を突き破る歓喜の咆哮。永遠に続くかのような感激に、広島ビッグアーチは震え続けた。
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優勝インタビューで青山敏弘は、こんなことを言った。
「優勝するとどうなるんだろうって思っていたけれど、ビッグアーチが満員になるんだね」
「優勝するとどうなるんだろうって思っていたけれど、ビッグアーチが満員になるんだね」
2004年に加入した青山はこれまで一度も満員のビッグアーチを経験していない。それは彼だけでなく、髙萩洋次郎も佐藤寿人も、広島で生まれ育った森﨑和幸・浩司の双生児も、この日はレポーターとして会場を訪れていた久保竜彦も、満員のビッグアーチでプレーしたことはなかった。この日、誇らしい優勝インタビューを受けた人物では唯一、森保一監督(当時)だけがホームスタジアム・フルハウスを経験した人物だったのだ。
成功者の戦い方を真似れば結果が出るのか?
本原稿では、「監督・森保一」を考えることがテーマとなっている。ただ、監督という職業を考える時、ただ単に「采配」とか「戦術」とか「練習方法」とか、そういうスポーツの一面だけを取り上げても意味はないと考える。1970年代のドイツを代表する名将ヘネス・バイスバイラーは「トレーニング方法やシステム、戦術などの知識をひけらかすコーチは、ほとんどが二流だ」と喝破している。この言葉が紹介された『サッカー監督という仕事』という著書の中で、著者の湯浅健二氏は「プロ選手を一つのチームにまとめることができるような力強く魅力的なパーソナリティ」を優れた監督の第一条件に挙げている。
その通りだと思う。「ポジショナルプレー」とか「ストーミング」とか、サッカーのタクティクスを説明する表現方法や概念は、メディアによって新しい言葉として表現される。だが、ジョゼップ・グアルディオラがやっていることを他の指導者がやろうとして、果たしてうまくいくだろうか。ユルゲン・クロップの戦い方を真似れば、結果が絶対に出せるのか。答えは、ここで記すまでもない。グアルディオラだから、クロップだから、成果が挙げられるのだ。
2012年から4年間に3度の優勝。決してビッグクラブではない広島の黄金時代を築いたのは、まぎれもなく監督・森保の成果だ。もちろん、前任者であるミシャことミハイロ・ペトロヴィッチ(彼もまた素晴らしいパーソナリティの持ち主だ)の育成あればこその成果であることは論を待たないが、もし森保が彼の後を引き継がなかったら優勝はありえなかったと断言していい。
チームとは、単純ではない。森保の成功は「ミシャがつくった攻撃に守備のエッセンスを加えたから」と説明されるが、それはあくまで一つの要素に過ぎない。ペトロヴィッチという素晴らしいパーソナリティを持つ監督の後に、彼とは違った魅力的な個性を持った人物が就任したからこそ、優勝という果実を手にすることができたと考えるのが、自然だろう。
指導者としての血肉になっているミシャの薫陶
前任者のペトロヴィッチは、すべてを一人で取り仕切る天才型だ。戦術面や技術の育成だけでなく、フィジカルコンディションまで自分で管理するタイプ。歴史上の人物に例えるなら織田信長に近い。一方、森保という指揮官は、攻撃の戦術は横内昭展コーチ(当時)、守備は下田崇GKコーチ(当時)、フィジカルは松本良一フィジカルコーチ(当時)とそれぞれスペシャリティを持つスタッフにある程度は任せ、その意志を統合しながらチームを構築していくタイプだ。
森保のスタイルをあえて例えるならば、幕末のヒーロー・西郷隆盛か。彼はまさに「仲間を信頼する」タイプの指揮官。大久保利通をはじめとして村田新八や小松帯刀(清廉)、自身の弟である西郷従道、そして部下ではないが坂本龍馬といった切れ者たちを心酔させるとともに、自身も徹底して信じ切る。時には敵であるはずの勝海舟や決して西郷を敬愛していない大村益次郎をもまた信じ切って仕事を進め、明治維新という大改革を成し遂げた。筆者はそう考える。
森保もまた、西郷と同様にスタッフを徹底的に信頼することで彼らの力を引き出した。練習でコーチたちが生き生きと声を出し、動き、選手たちにアプローチする。ペトロヴィッチ時代はまさに「アシスタント」だったコーチたちが、森保のもとでは主体的に動き出していた。
もろちん、どちらがいいというわけではない。繰り返すが、ペトロヴィッチはまさに天才。イビチャ・オシムの薫陶を受けた監督といわれるし、そういう要素も確かにあるだろう。しかし、彼の頭の中にあるサッカーはオシムよりも圧倒的に攻撃へとシフトしている。革命的な攻撃戦術を生かし切るためのトレーニングメニューもすべて、彼の頭の中に入っていて、誰もそれをのぞき見ることはできない。そういう天才のもとでは、誰しもが「頭脳」ではなく「手足」になる。というよりも、そうなることで初めて組織は円滑に回っていく。
森保も横内、下田も、さらにいえば現・大分トリニータ監督の片野坂知宏も、ペトロヴィッチの薫陶を受けた。それが指導者として彼らの血肉になっていることは疑いない。しかし、彼と同じことはできない。それもまた、森保は理解していた。だからこそ、コンセプトを明示した後はスタッフに信頼を寄せ、仕事を任せた。チーム・森保の力を結集し、総合力で統率を図る手法を彼は選択したのである。
だが、これもまた、誰もができるわけではない。「この人のためなら、どうなってもいい」と感じるくらいの人間的な魅力がなければ、スタッフも選手もついてこない。逆にいえば、近くにいる人物にそう思わせるパーソナリティこそ、森保最大の武器である。
例えば、横内は森保にとってマツダサッカークラブ時代の1年先輩にあたる。ペトロヴィッチ退任を受け、自分自身の進退も考えていた先輩に対し、森保新監督は笑顔でこう告げた。
「ヨコさん、また一緒にやりましょう」
「いいの? 俺、文句言っちゃうよ」
その言葉通り、横内は森保に対して積極的に意見を具申し、議論もいとわない。その言葉の数々を森保は受け止め、さらに議論を深める。
「ヨコさん、また一緒にやりましょう」
「いいの? 俺、文句言っちゃうよ」
その言葉通り、横内は森保に対して積極的に意見を具申し、議論もいとわない。その言葉の数々を森保は受け止め、さらに議論を深める。
「最後には監督が決断する。それは当然。ただ、その決断に至るまでは、僕だけではなくすべてのコーチングスタッフが関わってほしいというのが、監督の考え方。監督自身、すべてをさらけ出してくれるし、だからこそ僕らも全部をさらけ出して向き合える」
2012年当時、横内が教えてくれた内幕である。
2012年当時、横内が教えてくれた内幕である。
清水航平に対する信頼が生んだ「覚醒」
プロサッカーの監督という立場は、チームのマネジメントにおいては絶対的な権力を持つ。逆にいえば、権力者が仕切らないと方向性がバラバラになり、チームは崩壊する。ことプロサッカーにおいては民主主義だけでは勝てない。多数決で決まったことが勝利をつかめる保証はないわけである。現実には「俺がボスだ」と強権的に振る舞い、一方的に選手やスタッフを抑え込むような手法で結果を出す監督も多い。だが、一歩間違えればあっという間に人心が離れ、組織が一気に崩壊しやすいのもこのタイプだ。
一方で、民主的な手法を取り入れるのはいいが、人の意見を聞きすぎて自分を見失い、結果としてチームという船の舵取りが安定しなくなる場合も少なくない。意見というのは千差万別であり、人それぞれに違う。一方を取り上げれば、反対側の意見を持つ者たちは反発する。少しでもそこで迷いを見せれば「ブレている」と見られ、信頼を失う。自分の思いをさらけ出しすぎれば、監督としての引き出しのところで甘く見られることもある。
どんな手法であろうとも、監督が信頼を勝ち取るのは結果と実績しかない。もし、ペトロヴィッチが2006年、奇跡的な残留劇を成し遂げていなかったら、そもそも選手たちから慕われない。彼は2006年に結果を出していたからこそ、そしてその後も自分の考えるサッカーを提示し続けられたからこそ、2007年の降格時でも選手やスタッフ、クラブからの信頼を失うことはなかった。
では2012年、監督として初めて仕事をする森保にあったのは何か?
既に答えの一つは提示している。他者に対する徹底した信頼。それはコーチングスタッフだけでなく、選手に対しても同様である。
広島の新監督に就任した直後、森保はすべての選手に電話をかけた。寿人や和幸、青山のような絶対的な主力だけでなく、それまでほとんど試合出場のチャンスがなかった清水航平にまで。実際、移籍を考えていた清水は「自分が必要とされている」と感激し、広島残留を決めている。それだけではない。開幕前、「広島の左サイドは選手層に不安がありますよね」という記者の質問に対して「うちには(清水)航平がいますから。トレーニングでもいいプレーを続けている」と語った。当時、左サイドMFのレギュラーは山岸智だったが「俺も見てくれている」と清水は確信、監督の期待に応えようと自分を磨き続けた。
シーズン途中、山岸が血流障害のために長期離脱すると清水は左サイドのポジションを獲得。24試合出場4得点を記録し、左サイドのチャンスメーカーとして結果を出した。優勝を決めた第33節のC大阪戦、正確なサイドチェンジで2点目の起点となり、見事なドリブルでPKを奪い、3点目のゴールもお膳立て。前年まで戦力とみなされていなかった若者の覚醒は、森保の信頼から生まれた。
「僕の家でインタビューをお願いできないでしょうか?」
ただ、同じことを違う人が真似たとしても、おそらくはうまくいかない。森保という人間が醸し出す誠実さなくして、こういう行為が「信頼」という絆までは昇華できない。
彼がどれほど誠実か。筆者は実際に体験したことがある。
1995年、まだ筆者が広島を取材し始めて数カ月というタイミングで、日本代表MF森保一に取材する機会に恵まれた。アルゼンチン代表をクレバーな守備で苦しめ、クラウディオ・カニーヒアに評価された日本の「ボランチ」のパイオニア。ドーハの悲劇を経験し、広島のステージ優勝の主役として輝いた偉大な選手。スポーツライターとしてデビューしたばかりの自分にとって、緊張感しかないインタビュー。ドキドキしながら彼がやってくるのを待っていた。しかし、待てど暮らせど、彼はインタビュールームにやってこない。
予定から2時間。慌てた雰囲気で広島の広報がやってきて「すみません、森保が帰ってしまって……」。
……えーっ。
「どうやらすっかり忘れてしまっていて……、どうしましょう?」
どうしましょうって言われても……。
そうこうしていると、広報の携帯が鳴った。森保からだった。筆者に話があるとのことで、電話に出た。
「すみません。本当にすっかり忘れていて……」
間違いなく、テレビで何度も聞いた森保の声だった。
「は、はい」
「この後、予定は空いてますか?」
「はい。今日でしたら」
「だったら、ぜひ家に来てください」
えっ?
「僕の家で、インタビューをお願いできないでしょうか?」
「そ、それはもちろん」
「ありがとうございます。住所は広報に聞いてください。お待ちしています」
……えーっ。
「どうやらすっかり忘れてしまっていて……、どうしましょう?」
どうしましょうって言われても……。
そうこうしていると、広報の携帯が鳴った。森保からだった。筆者に話があるとのことで、電話に出た。
「すみません。本当にすっかり忘れていて……」
間違いなく、テレビで何度も聞いた森保の声だった。
「は、はい」
「この後、予定は空いてますか?」
「はい。今日でしたら」
「だったら、ぜひ家に来てください」
えっ?
「僕の家で、インタビューをお願いできないでしょうか?」
「そ、それはもちろん」
「ありがとうございます。住所は広報に聞いてください。お待ちしています」
信じられなかった。確かに非は森保にあるかもしれないが、普通であればまず「違う日程」を模索するものだ。それがいきなり、自宅招待である。今日、取材を受けなければ、彼はきっと困ってしまうだろう。そんな想像ができる人物なのである。
自宅に行くと、美しい奥様が手料理をつくって待ってくれていた。森保は普段着に着替え、笑顔でどんな質問にも答えてくれた。ちなみに、彼とはその時、初めての長い時間のインタビューになっていた。囲み取材すら、ビビってほとんど話せていなかったのに、彼はまるで十年来の知己のような雰囲気で接してくれた。
こんなことって、ある?
その日、筆者は何度も何度も自問した。考えられない。取材をすっかり忘れて帰っていたと聞いた時は、さすがに「えっ」と思った。しかし、その後の対応はパーフェクト以上。「申し訳ない」と感じたその瞬間から、彼はどうやってリカバーすればいいのか、筆者の立場に立って真剣に考えてくれたのだろう。ほぼほぼ初対面に近い人間に、ここまでできる。それが、森保という人間性なのである。
こういう誠実な人間に仕事を任せられたら、果たして手を抜くことができるだろうか。誰よりも早く練習場に来て、選手から裏方まで分け隔てなく声をかけ、試合に出られない選手の話にじっと耳を傾ける。それを就任時からずっと続ける監督のために、チーム全員が力を尽くしたいと願った。ペトロヴィッチがつくったチームを尊敬し、そのチームの良さを生かしながら前に進もうと苦闘するルーキー監督の姿を見て、誰もが力になりたいと思った。開幕戦前日、メンバー落ちせざるをえない選手たちを思って思わず落涙してしまった姿を見て、選手たちは「絶対に勝つ」と心に決めた。
森﨑浩司との“強い絆”
こういうエピソードがある。2014年、浩司は「オーバートレーニング症候群」と診断された病に苦しんでいた。2004年に発症以来、何度も克服しているのに、また何度も襲いかかってくる。頭がぼやけ、テレビを見ても新聞を読んでも情報が情報として入ってこない。横になっても倦怠感は抜けず、言い知れぬ不安が全身を支配する。2009年、最もひどい状態に陥った彼は、生命を終わらせる瀬戸際まで追い詰められた。
2013年の途中からまたも症状に苦しめられた主力を、森保は決して見放さなかった。事あるごとに彼に話しかけ、練習場の芝生の上に座り込んで彼の言葉にずっと耳を傾けた。双子の兄である和幸ですら「そんなネガティブな話なら、もうやめようぜ」と音を上げたくらい、浩司の言葉は否定的だった。しかし、森保はただただずっと、彼の話を聞いていた。それだけではない。自分自身の身にかつて起きたこと、感じたことをオブラートに包むことなく、言葉にした。
監督も自分をさらけ出してくれているんだ。浩司はうれしくなった。そして自分も変に隠しごとをせずに、正直に監督と向き合うようになった。トレーニングもチームメートたちと一緒にすることができなくなり、早朝7時からランニングを中心に個人練習をやろうと決めた時も、練習場に行けば森保がいて、一緒に走ったりもした。
2014年3月20日、浩司は戻らない体調を苦にして「このままでは迷惑をかけてしまう。練習を休ませてください」と伝えに監督室へと向かった。
機先を制するかのように、森保は言葉をかけた。
「浩司、今はしんどいだろう」
「はい」
「そのしんどい自分も、好きだなって思ってみたら、違うかもしれないな」
「え?」
「どんな状況になっても、そういう自分を好きだなって考えてみるんだよ。マイナスのことを考えたとしても、そういうことを考える自分が好きだなって」
「浩司、今はしんどいだろう」
「はい」
「そのしんどい自分も、好きだなって思ってみたら、違うかもしれないな」
「え?」
「どんな状況になっても、そういう自分を好きだなって考えてみるんだよ。マイナスのことを考えたとしても、そういうことを考える自分が好きだなって」
浩司は、この言葉にすがってみた。
「起きるのがしんどい自分も好きだな」
「ミスをして落ち込む自分が好きだな」
どんな感情も、どんな苦しみも、すべて「好きだな」で片づけることによって、不思議なことに気持ちが楽になり、症状も好転していった。
「浩司、今日はどうだった?」
「できました。今日も自分が好きですから」
この繰り返しから彼の体調は回復し、戦列復帰を果たすことができた。森保の存在がなければ、浩司の引退は2016年ではなく、あと2年は早かったはずである。
「起きるのがしんどい自分も好きだな」
「ミスをして落ち込む自分が好きだな」
どんな感情も、どんな苦しみも、すべて「好きだな」で片づけることによって、不思議なことに気持ちが楽になり、症状も好転していった。
「浩司、今日はどうだった?」
「できました。今日も自分が好きですから」
この繰り返しから彼の体調は回復し、戦列復帰を果たすことができた。森保の存在がなければ、浩司の引退は2016年ではなく、あと2年は早かったはずである。
本質は自分で決める「ブレない」人物
もちろん誠実であり、周りに気配りができる人物であれば成功できるわけではない。寿人や青山が証言したように、森保は「ブレない」人物である。周りの意見は聞くし仕事も任せるが、本質は自分で決めるし、決めたら動かない。
例えば2012年、初優勝を間際にした第29節から第32節まで、4試合で1勝1分2敗と勝てない時期が続いたことがある。しかしその間、指揮官は先発メンバーもシステムも一切、変えなかった。第33節、千葉和彦とミキッチの2人が欠場したが、それは出場停止になってしまったため。そこまで結果を出し続けた選手たちとやり方に全幅の信頼を置き、まったく動こうとしなかった。2013年、第32節・C大阪に0-1と敗れ、首位の横浜F・マリノスに勝点5差をつけられた時も同様。絶望的な勝点差にもかかわらず、彼は一切、動かない。絶対の自信をもっていつものメンバーを送り出し、そして連勝して奇跡ともいえる逆転優勝を引き寄せた。
一方、「危ない」と思った瞬間の決断も早い。2014年第18節、森保サッカーのベースである守備が崩壊して鹿島アントラーズに1-5で敗れた時、彼は「サバイバル」と宣言して守備を根本から見つめ直した。この試合だけならそういう判断もなかっただろうが、第12節で横浜FMを相手に後半アディショナルタイムで2点を失って逆転負け、第15節・大宮アルディージャ戦では3点差を同点に追いつかれた。ワールドカップ中断明けの5試合で13失点という惨状は明白な危険サインだ。
森保の決断はすさまじい。エース寿人を1トップから外し、自陣深くにゾーンを構えて徹底的に失点0を求めた。絶対的なレギュラーだったDF塩谷司をスタメンから外してまでチームに刺激を入れ、運動量が豊富なFW皆川佑介が積極的に起用された。
第19節から第28節までの10試合で失点はわずか4。6試合をクリーンシートで締めくくり、10試合で勝点15を重ねて崩壊を防ぐ。そして7試合連続してスタメンから外れる屈辱に燃えたエース寿人が、第28節からの6試合で4得点1アシストの大活躍。力で先発を取り返し、一時は危ぶまれたJ1での連続2桁得点記録を6年目(J2時代も含めると11年連続)に伸ばしたことによって、2015年のさらなる栄光にもつながった。
サポーターの激しい反発と森保采配への疑問符
寿人を先発から外した采配は、サポーターの激しい反発を呼んだ。「広島のエースは佐藤寿人だ」と書かれた横断幕が掲げられ、暗に森保采配への疑問符があらわにされた。エースが先発から外された7試合の得点がわずか4得点だったことも、広島の伝統となりつつあった攻撃サッカーが封印されたことも、批判の要因だった。選手たちの中からも、守備的な戦術に対する戸惑いも聞こえていた。
しかし、そういう声に迷うことなく、森保は我が道を進んだ。結果として勝点を積み重ね、第18節時点では降格ラインの16位と9ポイント差だった状況を回避し、「残留安全ライン」といわれる勝点40を第28節でクリア。
「もちろん、実績のある選手をスタメンから外すのは苦しい。しかし、大切なのは原理原則なんです。結果を出している選手を使うという原則を歪めてはいけない」(森保)
「もちろん、実績のある選手をスタメンから外すのは苦しい。しかし、大切なのは原理原則なんです。結果を出している選手を使うという原則を歪めてはいけない」(森保)
エースが外された時、台頭したのは皆川だった。練習試合で11試合16得点と驚異的な爆発を示したルーキーは、途中出場でも相手に脅威を与え「やれる」ことを示した。第19節・サガン鳥栖戦、第22節・徳島ヴォルティス戦とゴールを決め、ポジション奪取を果たしたかに見えた。
しかし、ここからエースがエースたるところを見せつける。天皇杯3回戦・水戸ホーリーホック戦でゴールを奪うと、Jリーグヤマザキナビスコカップ(現・JリーグYBCルヴァンカップ)準々決勝対浦和レッズ戦ではベスト4進出を決めるアウェーゴールをゲット。準決勝の柏レイソル戦でも2得点、さらに決勝のガンバ大阪戦でも2得点を記録。優勝こそ逃したものの「これがエースだ」という存在感を見せつけて、ポジションを奪い返したのだ。
森保が寿人のすさまじい反発力を期待したかどうか。もちろん期待した部分は大きかったにせよ、彼はただ「原理原則」と決意した方向性によって冷静に起用を決めたのだろう。それがエースへのバネとなった。結果論かもしれない。しかし、監督が評価されるべきは、やはり結果なのである。
一度壊れたチームを立て直した森保の面目躍如
優勝した3シーズンよりもむしろ、この年の森保の振る舞いのほうが印象深い。寿人・ミキッチ・塩谷ら主力中の主力を躊躇なく外し、一方で彼らが反発力を見せてくればスタメンに戻す。極めて当たり前のことのように見えるが、この当たり前のことができそうでできない。常に選手をフラットな目線で見続け、若いからとか経験があるとか、そういう余計な情報をできるだけ排除して評価する。一方で、守備に問題が生じたと思えば劇薬を使ってでも改善し、修正できたところで少しずつ元に戻していく。最終節のベガルタ仙台戦、広島はかつて見せたポゼッション能力を発揮し、パスをつないで相手を揺さぶって2−0と完勝。夏に大きな危機を迎えたとは思えないようなサッカーを表現し、右肩上がりの状況で8位でシーズンを終えた。
和幸が「一度、このチームは壊れた」と表現したほどの危機を見事に乗り越えたこの年こそ、森保の面目躍如。2015年、34試合制になってJ1リーグ史上最多となる勝点74を獲得し、平均得点2点台と平均失点0点台を両立した初めてのチームとなった。栄冠を獲得した「最強のチーム」のベースは、この危機を乗り越えたことでつくられた。それは石原直樹や髙萩といった大立者が移籍してもなお、揺るがなかった。
本原稿ではあえて、監督・森保一の戦術や戦略的なアプローチについては言及しなかった。彼がそれを持っていないということでは、当然ない。ただ、そういう要素は監督としての必要な能力の一つに過ぎないのに、そこを大きくクローズアップされてしまっては、誤解を生じてしまうからだ。だからあえて、森保一という男のパーソナリティについて言葉を重ねた。
次の機会には、2015年と2016年のシーズンを中心に語ることで、森保一という指導者・指揮官の本質にさらに迫ってみたいと考える。
<了>
「いま、届けたいメッセージ」東京五輪世代代表、招集全78名が発案・企画。新型コロナに苦しむ人々へ
東京五輪世代の日本代表にこれまで招集されてきた全78選手が、来年に延期された本大会に向けてメッセージを発した。
青山敏弘と森保一が語る最強の広島。
現在も息づくサンフレッチェの伝統。
どれだけ強かったかは、数字を見ればよく分かる。
2015年シーズンを制したサンフレッチェ広島。森保一監督体制4年目となったこの年、年間勝ち点74はJ歴代1位タイで、73得点30失点はいずれもこのシーズンにおいてトップの数字であった。何と得失点差は+43。続いて多い浦和レッズを14点も引き離している。
ピッチ上でチームを取り仕切ったのが、キャプテンの青山敏弘である。中と思わせて外、外と思わせて中。攻では緩急をつけたパスを散らしながら、守では泥臭く体をぶつけながら、駆け引き上手の先頭に立っていた。
欠場したのは累積警告による1試合のみで、33試合中32試合で90分間フルに戦っている。リーグMVPにも輝いた。こう記すと1年通しての充実があったと思われがちだ。しかし内実は、いや本人の感触はまったく違っていた。
思ったように走れない、蹴れない。周囲には分かりにくい微妙な差なのかもしれないが、本調子に届いていないもどかしさはシーズン後半に入るまで続いていた。
自分が悪くても、チームが良ければ。
人一番、責任感が強く、試合に懸ける思いが強く、森保いわく「それを溜め込んでしまうタイプ」。
それまでの青山なら本調子に戻っていかないことを悩み、己を責めてもおかしくない。
だがそうはならなかった。責任感の虫が多少動いたとしても、溜め込むまでにはなっていない。もどかしくとも、自分を抑えられた。それがシーズン終盤に入っての猛チャージを呼び込んだとも言える。
青山はこう振り返る。
「あのシーズンは、チームとして強かったので、たとえ自分(の状態)が良くなくてもチームとして良ければ、何の問題もないなって思っていました。歯車の1つとして働きたかったし、むしろそれが何より大事だ、と。チームのなかで自分の強みが出せるという場面も“いつかは来るだろう”くらいの気持ちでしたね」
佐藤寿人たちに吐露した胸の内。
歯車の1つ、という発想。
最低限のことを最大限に――。攻から守の切り替えでは、空いたスペースに懸命に戻り、球際の競り合いでは激しくファイトする。当たり前のことを、当たり前以上にやる。
「自分が中心でゲームをつくる。ゲームを動かす」という責任に真正面から向き合うと物足りなさを感じてしまうのかもしれない。今の自分がやれることを客観視しながら、“いつかは来るだろう”の感覚で引っ張ったことが、結果的にはチームをうまく回していくことにつながった。
何故、このような発想を持つことができたのか。
いくつかあるきっかけの1つに、春先のキャンプにおいて前キャプテンの佐藤寿人ら年長者と、水本裕貴ら青山と同世代の数人とで話し合いを持ったことがあった。チームの現状を確認していくなかで、キャプテンを担う青山の思いを聞く場にもなったという。
「自分はあんまり(思っていることを)表に出さないタイプ。そこで初めてというか、思いを吐き出したところはありました。今振り返ってみると、あの場が自分には大きかったような気がします。でも多分、あれは森保さんがやれって動いたんじゃないかなとは思っていますけど。
森保さんは常にチームを把握していましたし、自分たちのことをずっと見てくれている。どうやったらうまくいくかっていうのを考えているし、その思いも伝わってくるんですよね」
「溜めるんじゃなく、吐き出していけ」
先手を打つ必要があったのかもしれない。佐藤キャプテンのもと'12、'13年シーズンを2連覇し、'14年からキャプテンマークは青山に渡った。その年、チームは8位にとどまり、青山自身もブラジルワールドカップ後はケガもあって離脱した時期があった。
青山に対する強い残像が森保にはあった。
「監督になった1年目、練習もかなりきつくやりました。青山はぶっ倒れるまで、歩けなくなるまでやろうとする。その姿は今でも鮮明に覚えています」
自分を追い込み、周りも引き上げていく。だがコンディションが整わないなかで気持ちが入り過ぎてしまってはそれが青山にとってマイナス要因となりかねない。
'14年シーズンからの苦しみを、森保も理解していた。だからこそ青山に敢えて伝えることにした。思いを、みんなで分け合うことを。
「一度話をしたことがあります。溜めるんじゃなく、周りに(思いを)吐き出していけ、と。自分の考えを理解してもらいながら、助けてもらいながらやっていくのがチームなのだ、と」
このシーズンの強さとは。
理解してもらいながら、助けてもらいながら。
佐藤が前線で睨みを利かせ、後半途中から浅野拓磨が登場する。前年と入れ替わったドウグラス、柴﨑晃誠の2シャドーはチームに攻撃の幅をもたらし、青山をベテランの森﨑和幸がフォローする。アップダウンを繰り返す柏好文とミキッチの両ワイド、攻撃にも積極的に参加する塩谷司、千葉和彦、水本の3バック、安定感を誇るキーパー、林卓人……。
このシーズンの強さを青山はこう語る。
「以前よりコンビネーションが少なくなって、その分、個で打開するところをはっきりさせていきました。浅野が途中から出てくる勝ちパターンも、シーズンを戦いながらつくっていくという感じでしたね。ドウグラスと柴崎さんのシャドーもチームのやり方に凄くはまって、攻撃の質が高くなって。後ろからそれを見るのが楽しみでした」
全員で分け合い、全員で引き上がっていこうとする。組織的な全員攻撃と全員守備は、シーズンを戦いながら磨かれていった。
青山が助けられた、遠藤保仁の言葉。
青山が間接的に助けられた言葉があるという。それは日本代表のチームメイトであり、同じボランチの遠藤保仁が何気なく語っていた一言。
「自分のいいときをマックスの100としたら、70%くらいの感触でした。でも何かのインタビューでヤットさんが語っているのを見て、10割を目指すなかで7割か8割くらいの力を毎シーズン出せていたらそれでいいっていう話をしていて、自分の状況と重ね合わせてみたんです。自分でももっとやらなきゃいけないとは思っているんですけど、まずは最低限のことを目いっぱいやっていけたらとは思いましたね」
70%以上をコンスタントに出せるように。
もがき続けたことで10月になって自分の走り方がガチっとはまり、コンディションが一気に上向いていく。ガンバ大阪とのチャンピオンシップ決勝、アウェーでの第1戦では同点ゴールをアシストし、終了間際にはペナルティーエリア手前でパスをつないで柏の決勝ゴールを呼び込んでいる。第2戦は相手のパスの出どころをつぶす鬼気迫るディフェンスで、ガンバの攻勢を許さなかった。歯車の一つになることを徹底したことによって、自分も引き上がっていく。その先には最高の結末が待っていた。
束になった矢は折れない。
誰かの歯車が狂えば、全体に狂いが生じる。
ここに目をやり、気を配り、スムーズに歯車が回るようにする。その組織力こそがサンフレッチェの伝統。城福浩監督の体制になっても、そのベースは受け継がれている。
青山は言う。
「サンフレッチェはチームとして謙虚。優勝する前からずっとそうだとは思うし、それが自分たちの色。常にサンフレッチェの枠のなかで戦ってきていて、それがいいか悪いかは分からないけど、僕としてはそれが誇り。ここにいたいなって思えるチームです」
束になった矢は折れない。
2015年シーズンの成功体験は、何よりもそれを証明している。
MF柏、広島4人目の100試合連続出場なるか
サンフレッチェ広島MF柏好文(32)は17年4月16日の横浜F・マリノス戦からJ1リーグ戦97試合連続出場中。フィールド選手が100試合連続出場となれば史上18人目(同一チーム)で、広島ではMF服部公太、DF水本裕貴、FW佐藤寿人に次いで4人目となる。100試合連続出場の経験者が4人はクラブ別最多。不動の存在がいることでチームの戦いは安定する。
昨季は自己最多の8得点をマーク。これまでの年間最多は4点で、自身の記録を倍も更新した。そのプレーは円熟味を増し、持ち味のドリブル突破だけでなく、相手をかわしてのクロスにも磨きがかかる。守備網の背後を突くようなスルーパスの精度も高まり、自らゴールも狙う。32歳を迎え、万能型のサイドアタッカーへとさらなる進化を遂げている。
実力者ではありながら、これまで日本代表とは無縁だった。代表監督が採用してきた布陣に左アウトサイドを主戦場とする柏はフィットしなかったのか、声がかからなかった。だが、現在の日本代表森保監督の下では広島でリーグ優勝の経験があり、その考えも熟知。期待に応えるだけの実力と実績がある。【石川秀和】(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「データが語る」)
レジェンドOB「あれが彼の強み」MF川辺駿の先制弾などで広島が鳥取に完封勝ち!
[6.13 トレーニングマッチ 広島2-0鳥取]
サンフレッチェ広島は13日、ガイナーレ鳥取とトレーニングマッチを行い、2-0で勝利を収めた。
この試合はクラブ公式YouTubeチャンネルにてライブ配信。ゲストとしてOBの中島浩司氏、森崎和幸氏、森崎浩司氏が登場し、実況や解説を務めた。
雨が降る中、広島は前半こそスコアレスで終えたが、後半9分に先制する。自陣でのパスカットから前線のFWレアンドロ・ペレイラがボールを受け、追い越してきたMF川辺駿にスルーパス。裏へ抜け出した川辺はGKとの1対1から右足で落ち着いてゴール右に流し込んだ。
川辺は今季、背番号を40から8に変更している。現役時代に8番を背負って活躍した森崎和幸氏は自身の後継者に対し、「ボランチの位置からあそこまで長い距離を走っていけるというのは、本当に駿の強み。相手からするとマークしづらい」と称賛の言葉を送った。
後半44分には左サイドのMF浅野雄也が縦に仕掛け、左足で速いクロスを供給。中央でフリーとなったFW永井龍が右足で押し込み、2-0とする。広島はそのままリードを守り抜き、完封勝利を飾った。
サンフレッチェ広島は13日、ガイナーレ鳥取とトレーニングマッチを行い、2-0で勝利を収めた。
この試合はクラブ公式YouTubeチャンネルにてライブ配信。ゲストとしてOBの中島浩司氏、森崎和幸氏、森崎浩司氏が登場し、実況や解説を務めた。
雨が降る中、広島は前半こそスコアレスで終えたが、後半9分に先制する。自陣でのパスカットから前線のFWレアンドロ・ペレイラがボールを受け、追い越してきたMF川辺駿にスルーパス。裏へ抜け出した川辺はGKとの1対1から右足で落ち着いてゴール右に流し込んだ。
川辺は今季、背番号を40から8に変更している。現役時代に8番を背負って活躍した森崎和幸氏は自身の後継者に対し、「ボランチの位置からあそこまで長い距離を走っていけるというのは、本当に駿の強み。相手からするとマークしづらい」と称賛の言葉を送った。
後半44分には左サイドのMF浅野雄也が縦に仕掛け、左足で速いクロスを供給。中央でフリーとなったFW永井龍が右足で押し込み、2-0とする。広島はそのままリードを守り抜き、完封勝利を飾った。
広島「危急存亡」Tシャツ売り上げで補てんを
サンフレッチェ広島仙田社長がクラブの置かれた状況を「危急存亡」と表現した。
地元を支える活動を今後、新キャッチフレーズ「ひろしまの力を合わせて Save HIROSHIMA」とともに行っていくと発表。そのロゴデザインのTシャツも発売予定だが、同社長は「(無観客試合から再開され)年間指定席購入済みのお客様には返金が必要になります。Tシャツの売り上げは、この補填(ほてん)に充ててまいります。現金収入が相当期間にわたって途絶え、危急存亡にある。私たち自身の存続という希望も込めています」などとコメントした。
J1広島「三本の矢」用いた新キャッチフレーズ発表
サンフレッチェ広島は11日、新キャッチフレーズ「ひろしまの力を合わせて Save HIROSHIMA」を掲げて、地元へ貢献活動を行うと発表した。
新型コロナウイルス感染拡大防止に広島県一丸となって努める中、クラブはホームタウンの広島を守り、支えていく活動を行ってきた。今後も同様の活動を続けていく上で、今回のキャッチフレーズを掲げ、より地元密着の意思を表していく。
キャッチフレーズのロゴデザインにも思いを込めた。広島県の地図を小さなドットで表すことにより、ホームタウン広島とともに生きる1人1人の力を結集させて、この難局を乗り越えていく思いを表現。「力」の文字には、クラブ名「サンフレッチェ」の由来でもある、毛利元就の故事「三本の矢」を用いてデザインした。
「Save HIROSHIMA」の言葉には、広島を守り、支え、元気づけていく、という思いを込めているという。
今後は「オリジナルグッズ販売」「各種活動へのキャッチコピー使用による啓発」など随時展開していく。
仙田信吾社長は「まもなく、このロゴデザインを染め抜いたTシャツを製作販売します。(7月4日からの試合再開は)無観客からスタートし、その後も3密を避けるために少人数しか収容できません。ついては、年間指定席購入済みのお客様には返金が必要になります。Tシャツ売り上げは、この補填(ほてん)に充ててまいります。現金収入が相当期間にわたって途絶え危急存亡にあります。この言葉には、常に広島の人たちと共にある、私たち自身の存続という希望も込めています」などとメッセージを発表した。
サンフレ本拠地・エディオンスタジアムで”観客入り“試合に向け調査 広島
サンフレッチェ広島の本拠地・エディオンスタジアムで観客を入れた試合開催に向けた調査が行われました。
J1が来月4日に再開することが決まっているサッカー・Jリーグ。再開直後は無観客の予定ですが観客を入れての開催を視野に専門家が見回りました。密にならないよう広くなった選手のロッカールームや、1m以上離れて座る客席などが説明され専門家の助言を受けました。
広島大学病院感染症科の大毛宏喜教授は「とてもよく対策がとられていていいと思う。客席の距離ですとか行列の間隔を注意していただければ、安全に来ていただけると思う」と話しました。
今後は応援の方法や飲食などについて、専門家と相談し準備をすすめるということです。
風間八宏氏が挙げる“サッカーがうまい”3人のJリーガー。「ボールを止める力が凄い」という日本人選手は?
サッカーダイジェストでは、現在「DAZN」で配信中のサンフレッチェ広島が94年サントリーシリーズで優勝を決めた磐田vs広島戦で解説を務めた風間八宏氏にインタビューを実施。今年で28年目を迎えるJリーグおいて、選手、監督、そして解説者として関わってきた風間氏に、いま本当に“サッカーがうまい”と考える3人の現役Jリーガーを挙げてもらい、その凄さについて語ってもらった。さらに、同氏が考える“うまい”の基準とは?
サッカーにはいろんな要素があるから、一概に“うまい選手”と一括りにはしづらいけど、例えば中盤に限って言えば、(アンドレス・)イニエスタ(神戸)と遠藤(保仁/G大阪)だろうね。もちろん、技術があるからなんですけど、いろんなものが見えているというか、調整できている。周りが何かお膳立てすることで何かを見せるのではなく、しっかり自分でコントロールする。それが、彼らが長年やってきたこと。敵からすれば、かなり嫌な選手だし、ゲームをコントロールする選手としては、特別な能力を持っている。
それから、今後そうなってほしいと思うのが大島僚太(川崎)で、レベルとしてはイニエスタや遠藤と肩を並べる目の前のところまで来ていると思います。大島もやはりその技術は特別なものがある。とりわけ、彼にはゲームを止める力があるんです。それは、つまりボールを止める力が相当凄いということ。あれで相手は警戒するし、相手を止めることができる。
もちろん味方としても敵としてもやっていたからよく分かるんですが、対峙した選手は(大島の懐に)入れないですよ。結局、主導権があるのはボールを持っている方なんです。少し大雑把に分かりやすく言うと、例えばボールを奪いに行こうとしても、相手が手で持っていたら獲りに行けないでしょう。それくらい余裕があるということです。
だから、行ったらかわされる、パスを出されるという場所にボールがピタっと止まれば、相手は獲りに行けなくなる。その止める・蹴るの動作をすごく短い時間で大島はできるということですね。あとは彼の中に持っているものをもっと外に伝えたり、表現できるようになれば、やはり遠藤やイニエスタなどのようにゲームをしっかり作れて、見られる選手になれるのではないかと思っています。
うまい選手の基準、定義を語るのはすごく難しいところ。私の考えで言えば、一緒に見て理解した人でなければ本当のところは分からないでしょう(笑)。
ただ、だからこそ、それは見た人の感じ方でいいと思うんです。やっぱり苦しい時には遠藤にボールが集まるし、イニエスタにボールが集まる。選手の視点で見ても、まずはこの人にボールを預けておけばと、一番最初に考えるのが遠藤だったり、イニエスタなのだと思います。大島もそういう存在になっている。
そう考えられているというのは、チームの目を全部自分に向けているわけだから、相手もそこを抑えてくるわけですよね。敵味方の“両方の目”があるなか、それでも彼らは活躍できる。味方からは頼りにされて、敵からは本当の敵に見られて。そのなかでゲームを作りながらサッカーをやるのは、中盤の選手の醍醐味だけど、そう簡単にはできない。
遠藤やイニエスタ、大島は、すごく難しいことをやってのけられる、そういう選手たちですね。
取材・構成●長沼敏行(サッカーダイジェストWeb編集部)
兄のゴールにも「なんか、むかつく」。浅野雄也が抱く拓磨へのライバル心
タクマとユウヤは、走り方が違う。
森崎和幸と森崎浩司は特長のある走り方で、言葉どおりの瓜ふたつ。普通に走っている姿を見たら、まったく見分けがつかない。しかし、浅野家の三男・拓磨(現パルチザン)と四男・雄也は、手の使い方が違う。弟・雄也のほうが手を水平に使いがちでフォームが明確。拓磨もやや横方向に腕が広がるが、どちらかというとオーソドックスだ。
プレースタイルも違う。兄・拓磨はまさにストライカー。50メートル5秒台という超絶なスピードが目立つが、本質的にはゴール前で勝負する。彼のスピードを活かしたいと欧州の指導者はサイドで使おうとしたが、彼にチャンスメーカーは似合わない。クロスやパスよりも、やはりシュート。ゴール前での駆け引きを楽しみ、ペナルティエリアの幅の中で勝負するタイプで、本質的には佐藤寿人(現・千葉)のスタイルを受け継ぐ選手である。
一方の弟・雄也は、紛れもなくチャンスメーカーだ。サイドにポジションを取ってボールを受け、兄と遜色ないスピードを活かして突破し、大阪体育大時代はプレースキックも任されていた得意の左足でクロスや決定的なパスを出す。
もちろん、得点を狙いに行く迫力もあるが、それは彼の魅力のひとつに過ぎない。「雄也がボールを持つと必ず突破してくれるし、良いクロスを流してくれる。FWの僕からすれば、サポートする必要もないし、ゴール前でクロスかパスを待てばいい。一緒にプレーするのが楽な選手ですね」と永井龍は語る。
四日市中央工高で活躍し、高校選手権では得点王にも輝いて、リオ五輪代表からA代表へ上り詰めた兄と違い、弟は遅咲きである。大阪体育大から水戸にプロ入りした時も「拓磨の弟」という注目のされ方はするものの、彼のプレーそのものに光が当たることは少なかった。
しかし、彼はずっと自分を見失っていない。少年時代から拓磨と切磋琢磨し、「俺のほうが上手い」と言い合いながら、激しい兄弟喧嘩も厭わずに育ってきた。拓磨がプロで活躍しても、「タクには負けたくない」という気持ちが消えることはなかった。
セルビア・リーグのバルチザンで拓磨がゴールを決めても「なんか、むかつく」。広島時代の兄の活躍についても「特に興味はなかった」と嘘ぶく。兄と弟というよりも、絶対に負けたくないライバルという意識の方が常に勝っていた。
今季から兄が飛躍した広島で、雄也はプレーする。背番号29はかつて兄が背負い、G大阪とのチャンピオンシップで優勝を決めるゴールを叩き込んだ時の番号である。この番号に決まった時、当初は「最悪や」と雄也は思っていた。
しかし、すぐに切り替えるポジティブシンキングは、兄以上かもしれない。「タクのユニホームを買ってくれたサポーターが、俺のサポになってくれるかも」。こういうことをスラッと口に出せるメンタルは、プロとして大きな武器となる。
ルヴァンカップの横浜FC戦では左サイドで強烈な突破から見事なクロスを供給し、レアンドロ・ペレイラの決定的なシュートを導いた。緊急事態宣言前のトレーニングマッチ・鳥取戦でも、1得点1アシストと存在をアピール。
左ワイドとシャドー、どちらでもプレーできるユーティリティ性は、過密日程と1試合5人交代制の今季の戦いには間違いなくメリット。スピードと左足という明確な武器を持つ浅野には、大きなチャンスが待っているはずだ。
「どこでプレーしても、攻撃で結果を出したいし、守備もハードワークしていきたい。ゴールを決めてヒーローになりたいんですけど、それもチームのために頑張って初めて、ゴールにもつながっていく。広島のエンブレムを見ると鳥肌が立つし、このチームの一員だと自覚してプレーしたい」
2024年、広島には新スタジアムが開業する予定だ。その時には雄也がチーム屈指のチャンスメイカーとして君臨し、欧州で結果を残した拓磨が凱旋復帰して弟のラストパスをゴールする。新スタジアムで浅野兄弟が火花を散らしながら紫のサポーターの熱狂を誘う。そんな姿をずっと、夢見ている。
取材・文●中野和也(紫熊倶楽部)
ただ今、武者修行中。Jリーグ再開後、レンタル先で輝きを放つ7人に川井歩
プロサッカーの世界には期限付き移籍(レンタル移籍)というものが存在します。一定期間、主には1シーズン他クラブに貸し出すことで、プレー機会を増やしたり、場合によっては新天地でアピールして完全移籍を勝ち取ったりと、いろいろな形式が存在します。
今回は主に育成型の期限付き移籍により、”武者修行”先でブレイクが期待される7人をピックアップしました。全て97年年以降の生まれで、来年に延期された東京五輪の候補にもなりうる選手たちです。
J2、J3は6月27日、J1は7月4日に再開が予定されますが、ぜひとも注目してみてください。
岡崎慎(FC東京 → 清水エスパルス)
J1の清水エスパルスに期限付き移籍。来年に延期された五輪に向けても成長が期待される岡崎は新しい環境でチャレンジしたい気持ちと、清水側からのラブコールが実る形で実現したと見られ、横浜F・マリノスのコーチとして昨年J1優勝を経験したピーター・クラモフスキー監督からも、大きな期待がかけられているようです。
もともとFC東京でもセンターバックと右サイドバックをこなしていましたが、清水ではボランチがメインのポジションになり、新境地を開拓中。また”リベロ”と呼ばれる3バックの中央もテストされています。岡崎本人がトゥーロンなどの経験を通して、センターバックとして世界で勝負することの難しさを自覚しており、ボランチは伸びしろを考えた時に、非常にやりがいのあるポジションとして捉えているようです。
ボール奪取力が高く、パス能力や状況判断にも優れており、ルヴァン杯の川崎戦で途中から組んだ中村慶太も連携面や的確な声出しなど、一緒にプレーしやすかったことを明かしています。あとはボランチ特有の運動量と中盤のインテンシティーに負けない判断スピードやファーストタッチの正確性、間合などをどこまで高めていけるかが鍵でしょう。
山田康太(横浜F・マリノス → 水戸ホーリーホック)
マリノスのアカデミー出身で、ファンサポーターからは”プリンス”の愛称で親しまれ、同時に期待がかけられているタレント。昨年は風間八宏氏が率いていた名古屋グランパスに成長を求めて移籍しましたが、残留争いを強いられたグランパスはマッシモ・フィッカデンティ監督に代わり、山田は出番がないままシーズンを終えることになりました。そこからマリノス復帰の噂もあったものの、再レンタルでのホーリーホック移籍となりました。
彼の場合は現在のマリノスであっても、十分に戦力になり得る実力を備えているのは確かです。しかしながら主力として計算されない限り、若くしてボランチ、サイドバック、サイドハーフとマルチな役割をこなせる器用さが逆に起用法の幅を広げすぎてしまう向きがあります。Uー20代表でコーチとして山田を見続けてきた秋葉監督が指導する水戸では4ー4ー2のボランチ、3ー1ー4ー2のインサイドハーフと言った中央のポジションでゲームメイクやゲームコントロールを期待される存在です。
そうした役割でフル稼働できれば、マリノスでも便利なマルチロールではなく、中盤で主力を狙えるだけのポテンシャルはあるので、昨年7位から昇格を狙う水戸で経験を積み、プレーの強度をさらに高めて行くことが期待されます。
一美和成(ガンバ大阪 → 横浜FC)
昨年J2の京都サンガで17得点を記録。1つのチームのエースとしてフルシーズンを戦い抜いての結果であり、その結果はガンバの強化部も高く評価しているはずですが、同じJ1のライバルとなる横浜FCに期限付き移籍することになりました。宇佐美貴史はともかく、開幕前のアデミウソンの状態や小野瀬康介をFW起用するなど、試行錯誤している事情を考えれば、個人的には一美を戻しても良かったのではとも思いますが、確実なのは横浜FCの方が主力として出場機会を得られることです。
神戸との開幕戦は得点こそあげることができませんでしたが、前からのディフェンスと柔らかい身のこなしを生かしたポストプレーなど、チーム力に勝る相手にアウェーで1ー1の引き分けという結果をもたらす原動力になりました。ガンバのFWでは他にいないタイプでもあるので、J1で目に見える結果を出せれば延期になった東京五輪の候補としても注目されそうです。
遠野大弥(川崎フロンターレ → アビスパ福岡)
昨年の天皇杯で躍進した”JFLの雄”HONDA FCから川崎フロンターレに加入後、即レンタルされたアビスパ福岡で早くも前線の主力に名乗りをあげました。J2開幕戦で2トップのスタメンに抜擢されるとデビュー戦でゴールを記録。鋭い動き出しや迷いない判断と言った機敏性が魅力で、プレー精度も高いものがあります。
研ぎ澄まされたビジョンを備えるタレントであり、抜け目ない集中力もストロングポイント。ジョーカー的な役回りなら、今フロンターレに戻っても試合に出られる能力はあると評価できますが、戦術的な要求が明確な長谷部監督のもと、アビスパ福岡でスキルや戦術眼に磨きをかけて来季のフロンターレに合流できれば、重要な戦力になっていく可能性を秘めています。
杉森考起(名古屋グランパス → 徳島ヴォルティス)
グランパスのアカデミーからクラブ史上最年少でプロ契約を果たした逸材も23歳になりました。昨年の入れ替え戦で惜しくもJ1昇格を逃した徳島に加入。東京ヴェルディとの開幕戦で徳島は3-0と快調スタートを切りましたが、その試合で大車輪の存在感を示したのが杉森でした。
鋭いドリブルで先制点の起点となり、2点目は杉森が相手のミスからボールを奪い、そのまま迷いなく仕掛けたところから生まれました。ブラジルW杯のトレーニングパートナーとして参加していたこともあり、個人的にも思い入れの強い選手ですが、ようやく”ひ弱さ”が取れてきた印象です。
2018年には町田にレンタルされた杉森にとって二度目の期限付き移籍となりますが、97生まれで大卒ルーキーと同じ年齢です。まだまだ伸びしろはありますし、ポテンシャルは高いですが、現在のグランパスで言えば阿部浩之のポジションなので、昨年は入れ替え戦で惜しくも昇格を逃したヴォルティスをJ1に引き上げる原動力になるぐらいの活躍が期待されます。
名古屋グランパスはFWの深堀隼平が同じくJ2の水戸ホーリーホックに期限付き移籍、開幕戦にスタメン起用されており、彼らの成長が来年の編成にも大きく関わるかもしれません。
川井歩(サンフレッチェ広島 → レノファ山口)
プロ入り3年目の昨シーズンに地元のレノファ山口に期限付き移籍すると、主に左サイドバックでレギュラーに定着し、3バック採用時は右ウィングバックを担当。高い機動力と攻撃センスを発揮して、東京五輪に向けたUー22代表のメンバーにも選ばれました。広島復帰もあるかと思っていましたが、レンタル期間を延長。霜田正浩監督のもとレノファでさらなる成長を目指す選択をしました。
キャンプでは怪我で出遅れたこともあり、リーグ開幕戦はベンチ入りもできませんでしたが、中断期間のトレーニングでは溌剌とした姿を見せていたので、左サイドでは安在和樹、右サイドでは武岡優斗という経験豊富なライバルもいますが、さらなるブレイクに期待したいところです。
小島亨介(大分トリニータ → アルビレックス新潟)
各区年代の代表に選ばれてきた選手だけに、大分でも早期の台頭が期待されましたが、小島も尊敬する守護神の高木駿をはじめ競争レベルが非常に高く、なかなか出番を得られない状況が続きました。そうした中で、東京五輪世代を大量に招集したEAFF E-1のメンバーに選ばれ、さらにAFC U-23選手権ではチームキャプテンを務めました。
そうした経験を経て、アルビレックスに期限付き移籍した今シーズン。開幕戦でスタメンを任されると、安定したカバーリングや配球など、群馬戦で3-0の勝利に大きく貢献しました。再開に向けても非常に楽しみだった矢先、左脛骨(けいこつ)疲労骨折で全治3ヶ月と発表。それでも小島はクラブのツイッターで明るい表情を見せており、焦らず治して再び良いパフォーマンスを期待したいと思います。
ゆるんだお腹を解消!寝転んだまま下腹部引き締め|サンフレッチェ広島・東 俊希選手
運動不足解消のために何かしたいと思っている方必見! Jリーグ選手によるトレーニングやストレッチを紹介します。今回は「オルタネイドレッグレイズ」という腹筋トレーニングです。
インストラクターは、サンフレッチェ広島で活躍する東 俊希選手です。
「オルタネイドレッグレイズ」とは、下腹部を強化・引き締める腹筋トレーニングのこと。コロナ太りを解消したい方にオススメです!
お好み焼きで広島に恩返し 元サンフレ森崎和幸さん、来週から1000枚無料提供 うつ闘病本の印税使用
恩返し―。現役を終えた時に抱いた思いを今、形にする。サッカーのJ1サンフレッチェ広島の元選手、森崎和幸さん(39)が、新型コロナウイルスの影響を受ける広島を活気づけようと、お好み焼き約千枚を振る舞う計画を進めている。
自粛生活中にテークアウトしたお好み焼きの味に、はっとしたという。「食べて元気が出た。広島のソウルフードだし、みんなで頑張る象徴に思えた」。クラブのスポンサーで親交のある「みっちゃん総本店」に協力を求めて企画。5日、広島市佐伯区の事務所で小林直哉社長と話し合い、来週から県内7店舗のいずれかで、1日100~200枚限定で1人1枚プレゼントすることにした。森崎さんも店頭に立ち、直筆の手紙とともに手渡す。
森崎さんは広島市安芸区出身。1999年にプロデビューしてからの20年の現役生活は、うつ病との闘いでもあった。何度も戦列を離れ、自らを責め、引退はおろか死ぬことも考えた。病を克服し、復帰できたのは多くの人の支えがあったから。「今後は僕が誰かのためになりたい」。闘病生活をまとめ、昨秋出版した書籍の印税全額を使って恩返しする機会を探していた。
「苦しい時にどれだけ人のために尽くせるかが、人間の本質だと思う」。支え合うことで生まれる力を信じている。
「GKもそろそろ…」「満員とは奇跡」風間八宏氏に訊く28年目のJリーグ、その風景はどう変わった?
Jリーグは、7月4日にJ1が再開し、それに先行して6月27日にJ2再開とJ3開幕が決まった。新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けた今シーズンは、ようやく再開への道筋が立ったところだが、いまだ試合を見られずに退屈しているファンのために、「DAZN」では「Re-Live」と称して過去の名勝負を放送中だ。
今回は現在配信中のサンフレッチェ広島が初のステージ優勝を果たした1994年Jリーグ第1ステージ21節・ジュビロ磐田vsサンフレッチェ広島で解説を務めた風間八宏氏に、Jリーグ誕生前後から今日までの日本サッカーの趨勢について話を伺った。
――◆――◆――
――Jリーグが誕生して27年が経過しましたが、選手、指導者、そして解説者として関わって来られた風間さんから見て日本サッカーの風景はどう変化してきましたか?
93年にJリーグが始まった時というのは、“異常”でしたよね。どう見ればいいか分からないけど、とにかく物凄いものが日本に現われたみたいな感覚だったと思います。だけど、今はもうこれが日常の話になって、生活の中に普通に溶け込んでいる。それが一番の大きな違いでしょう。
スタジアムの中でも前はサポーターがそこに「見に行く」ということに価値を置いたけど、今は自分たちで演出したり、あるいは自分たちが見たいものを「見たい」と声を上げ出したりしている。サポーターが一緒に彩ってサッカー場を盛り上げている。その違いはすごく大きいし、それだけサッカー界全体が一体になってきたのが今だと思います。今はそれが日常の光景だから、「無観客試合」というのはちょっと考えられないですね。
――ピッチ内の変化でいうと?
やはり時代とともにルールが変わってきたので、もちろんサッカーも変わってきている。ポジションの定義も劇的に変わってきていますよ。例えばGKもひとりだけ違うユニホームだけど、もうそろそろ同じでもいいんじゃない? というくらいフィールドプレーヤーとしての役割が求められて、そういう質を持つGKが多くなっている。だから、昔ものすごく評価されていたGKが今だったら違う評価になるかもしれない。
ルールが変わっていろんな意味でゲームに“参加する”人数が多くなってきたし、極めて11人に近い参加型のサッカーになってきている。スピードも目に見えて上がってきていますよね。
――風間さんが現役プレーヤーだったJリーグ草創期と比べても、そこは大きく進歩している?
もうそうなるしかない。ルールが変わったこともそうだし、みんなの考え方も変わってきた。例えば、とてつもない選手が出てきても、エースひとりがボールを持つ時間が少なくなっているのは確か。もちろん、最初はひとりの質に頼っていた部分はあると思うんだけど、だんだんチームの結びつきの比重が大きくなってきて、そうなると良い選手の条件もまた変わってくる。
さっきも言ったように、以前に比べてはるかにスピードは上がったし、ボールも外に出なくなっています。その辺りの質はかなり向上している。ボールが外に出ても、すぐ入るようになりましたしね。数字上で見ても、質の向上は山ほどあると思います。
「本気の選手は必ずうまくなる。プロだろうが、アマだろうが関係ない」
――監督としては、98年の桐蔭横浜大学から筑波大、川崎、名古屋と指導されてきました。
監督で感じるのは選手の年輪、伸びしろというのがどれだけあるのかという楽しさ。それはレベルに関わらない楽しさですよ。
やっぱり指導者として関わっていると、本気の選手はみんな上手くなっているのが分かる。チームを見ていてもそうだし、選手個々を見てもそうでした。私が指導していて、向かってこない選手はひとりもいなかった。私は子どもたちも教えているんですが、勘違いしていけないのは、そこにプロもアマもないっていうこと。本気の選手は必ずうまくなるので。
少し時間がかかったり、質の違いができたりはするけども、素直な頭を持っていれば必ず上手くなるのが選手なので、それはプロだろうがアマだろうが関係ない。だから、川崎でも名古屋でもあるいは大学などでも、どのチームにいた時も、ほぼ全員の選手が印象に残っていますよ。
――やはりそこにJリーグ、プロがあったからこそ、モチベーションや意識の向上につながった部分もあるのでしょう。
もちろん、そうですね。私が(ドイツから)日本に帰ってきた頃にはまだプロはなかったですし、中学の頃はよく「勉強しろ」って言われていましたから。サッカーをやっていても何もならないからって(笑)。
――他に、監督としての印象的な経験はありますか?
もうひとつ挙げるとすれば、場所の変化。例えば川崎だったら、最初は1万4、5千くらいのお客さんだったのが、普通に2万2、3千のお客さんが入るようになった。あのスタジアムには、あのスタジアムの雰囲気というのが確立されていて、そこの空間にいると、「今これを期待しているんだろうな」というのがよく分かる。そういう空気ができているんです。
グランパスの時も豊田スタジアムが満員の4万3千人くらい入りました。そうした数字の大きさはもとより、やはりグランパスにも彼らの空気があって、そういうものも本当にありがたかったし、すごく感謝したいですね。グラウンドにいる自分たちだけで作るモノではないんだなというのを、強く感じさせられたものですよ。
そういう面ではすごく良い経験をさせてもらったと思いますね。ピッチで何かを見せるだけでは、作れないものだから。いろんなスタジアムがあるけど、そこまでお客さんが入る、満員になるというのは、すべてが揃わないとなかなかできないこと。もちろん、サッカーがなければできないけど、そこに応援してもらうだけの魅力がなければできないし、クラブもメディアも一緒になってそういうグラウンドを作ろうとしなかったら、何も起こらない。
だから、満員のスタジアムで試合をするというのは、奇跡だと思うんです。奇跡とはすべてが揃うということ。ヨーロッパにはたくさんありますけど、それをずっと続けるチームというのは、本当の奇跡のチームですよ。
取材・構成●長沼敏行(サッカーダイジェストWeb)
村上農園、サンフレッチェ広島F.Cとクラブトップパートナー契約を締結
株式会社村上農園(本社:広島市、代表取締役社長:村上清貴)は、広島市をホームタウンとする日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ「サンフレッチェ広島F.C」とのクラブトップパートナー契約を締結いたしましたので、お知らせいたします。
クラブトップパートナー契約の概要
サンフレッチェ広島F.Cは、当社と同じく広島市を本拠地とし、ジュニア育成に重点を置いた運営方針は、野菜の新芽を大切に育み、それらに含まれる機能性成分よって人々の健康に寄与したいという当社の企業理念とも合致しているサッカーチームです。当社は機能性野菜のパイオニアとして“からだの健康”をつくる発芽野菜の普及活動と共に、スポーツを通じた“こころの健康”づくりにも微力ながら貢献したいと考え、今回のクラブトップパートナー契約の締結に至りました。
当社は、地域の皆様やサポーターの皆様と一体となってサンフレッチェ広島F.Cのさらなる活躍を応援していきます。
[2020年シーズン クラブトップパートナー主な内容]
1.選手トレーニングウェア、育成コーチウェアへのロゴ掲載
2.フィールド看板、メインスタンド上部へのロゴ掲載
3. フォリアカップの冠協賛
ブロッコリー スーパースプラウトの年間提供
当社のブロッコリー スーパースプラウトは、有用成分「スルフォラファン」を成熟ブロッコリーの20倍以上(428mg/100g)含む高成分野菜です。当社は、このブロッコリー スーパースプラウトをトップチームおよびユースチームに提供することを通じ、選手達の日々のコンディショニングを食事面からサポートしたいと考えています。
代表取締役社長 村上清貴のコメント
今シーズンは新型コロナウイルスの影響で、Jリーグの公式戦再開の目処が立たない状況が続いていました。1日でも早いJリーグ再開への願いと、サンフレッチェ広島の力で地元広島に活力を与えてほしいという思いから、この度パートナー契約を締結させていただきました。
また当社では、2019シーズンからトップチームとユースチームへ、抗酸化力をサポートする「ブロッコリー スーパースプラウト」の年間提供を行っています。ここ広島からトップ選手の新たな芽が育ってほしいという願いを込めて、今後も引き続きブロッコリー スーパースプラウトを提供いたします。
村上農園 会社概要
設立 1978年1月
代表者 代表取締役社長 村上清貴
売上 107億1,900万円(2019年12月期)
事業内容 スプラウト、豆苗(とうみょう)、かいわれ大根など発芽野菜と高成分野菜の生産・販売
事業所 本社・研究開発部(広島)、生産センター(千葉、神奈川、静岡、山梨、三重、広島、福岡)、営業所(東京、名古屋、大阪、広島)
関連会社 株式会社沖縄村上農園(沖縄県大宜味村)
ウェブサイト https://www.murakamifarm.com
番記者選定「J1・クラブ別歴代最高プレーヤー」。選ばれし18名の顔ぶれは?
2020年シーズンのJ1&J2全40クラブで、それぞれ歴代最高プレーヤーは誰なのか? 5月28日発売のサッカーダイジェストで特集されている「クラブ別歴代最強チーム」の中でピックアップされた歴代最高プレーヤー40人のうち18人を、ここでは「J1編」としてお届けする。
<鹿島アントラーズ>
ジーコ(MF/所属期間:1991~1994年)
“サッカーの伝道師”であるこの巨星がいなければ、「今の鹿島はなかった」と言わしめる影響力をピッチ内外で示した。93年の開幕戦でのハットトリックには、ただただ驚嘆するしかない。(選者/小室功=オフィスプリマベーラ)
<横浜F・マリノス>
松田直樹(DF/所属期間:1995~2010年)
存在感という意味で、この男の右に出る者はいない。闘志や情熱を前面に押し出すプレーは見ている者の心を強く揺さぶった。“マツ”は多くのサポーターの心の中で生き続けている。(選者/藤井雅彦=ジャーナリスト)
<サンフレッチェ広島>
森崎和幸(MF/所属期間:1999~2018年)
パス成功率90パーセント以上の精密さとともに「ピッチの指揮官」と森保監督が称した洞察力や戦術眼がなければ3度の優勝はなかった。厳しい病を何度も克服した頑張りにも敬意を表して。(選者/中野和也=紫熊倶楽部)
<ガンバ大阪>
遠藤保仁(MF/所属期間:2001年~)
01年の加入後、全タイトルに主力として貢献。驚異的な稼働率はもちろん、この男の哲学がガンバの攻撃性能を支えた点も称賛したい。遠藤なしにクラブの栄冠はなかったと言い切れる。(選者/下薗昌記=サッカーライター)
<川崎フロンターレ>
中村憲剛(MF/所属期間:2003年~)
J随一の戦術眼を誇るバンディエラ。彼抜きにクラブの歴史は語れない。リーグ初優勝時に等々力のピッチで泣き崩れた姿は永遠に語り継がれるだろう(選者/いしかわごう=フリーライター)
<浦和レッズ>
ロブソン・ポンテ(MF/所属期間:2005~2010年)
クラブの全盛期に絶大な存在感を発揮。苦しい試合ほど、そのゴールでチームを救う“本物”の「背番号10」だった。06年のJ1優勝と07年のアジア制覇は、彼なしには果たせなかった。(編集部選定)
<名古屋グランパス>
楢崎正剛(GK/所属期間:1999~2018年)
ストイコビッチ、中村直、ウェズレイと候補は多彩も、やはり“勤続20年”の貢献度に勝るものはなし。J通算660試合出場の鉄人は、日本サッカー史に名を残した絶対的守護神だった。(選者/今井雄一郎=フリーライター)
<柏レイソル>
大谷秀和(MF/所属期間:2003年~)
ジュニアユースから柏一筋を貫き、クラブ通算最多出場記録を更新し続けている(現在は445試合)。国内3大タイトル獲得と3度の降格を経験し、酸いも甘いも知り尽くしたレジェンドである(選者/鈴木潤=フリーライター)
<FC東京>
徳永悠平(DF/所属期間:2006~2017年)
玄人好みのプレーでチームを支えた右サイドの鉄人で、J1での359試合出場はクラブ歴代最多。華のあるタレントは他にもいるが、貢献度でこのベテランを超える選手はいない。(選者/馬場康平=フリーライター)
<セレッソ大阪>
森島寛晃(MF/所属期間:1994~2008年)
言わずもがなのシンボル。前身のヤンマー時代から一筋で、現在はクラブの社長を務める。実績や知名度も抜群で、愛される人柄も魅力。まさに「ミスター・セレッソ」と呼ぶに相応しい。(選者/西海康平=スポーツニッポン新聞社)
<ヴィッセル神戸>
小川慶治朗(FW/所属期間:2011~2018年7月、2019年~)
自ら志願してエースナンバー13を背負うなど生え抜きとしての意識が強く、献身的なプレーでチームを牽引。そのクラブを思うひたむきな姿勢に監督は信頼を寄せ、ファンは惚れる。(選者/白井邦彦=フリーライター)
<湘南ベルマーレ>
中田英寿(MF/所属期間:1995~1998年)
95年の加入後、すぐさま主力に定着し、JリーグベストイレブンやAFC年間最優秀選手に輝く。平塚でプロとしての基礎を固め、フランス・ワールドカップを経て欧州へと羽ばたいた。(選者/隈元大吾=フリーライター)
<清水エスパルス>
澤登正朗(MF/所属期間:1993~2005年)
クラブ創設時から主力として活躍し、9年もの間、10番を背負った。クラブ最多得点者で99年チャンピオンシップでの直接FK弾など伝説も数多く。皆が認めるミスター・エスパルスだ(選者/前島芳雄=スポーツライター)
<北海道コンサドーレ札幌>
ウィル(FW/所属期間:2001、2003年)
同じFWではエメルソンらも候補だが、所属した01年にJ1得点王に輝いたこの男はパワー、技術、速さ、戦術眼のすべてを備えていた。総合力で言えばナンバー1のタレントだろう。(選者/斉藤宏則=フリーライター)
<大分トリニータ>
高松大樹(FW/所属期間:2000~2010年、2012~2016年)
16シーズンを大分で過ごし、出場数、得点数はいずれもクラブ歴代トップで、大分が獲得したタイトル3つにすべて選手として携わった。“ミスター・トリニータ”と呼べる唯一のプレーヤーだ。(選者/柚野真也=フリーライター)
<ベガルタ仙台>
梁勇基(MF/所属期間:2004~2019年)
04年に練習生からプロ契約を勝ち取り、瞬く間に主力へと成長。06年から在籍最終年の19年まで「10番」を背負い続けた。正確なキックと献身性で、長年チームを支えたバンディエラだ。(選者/板垣晴朗=フリーライター)
<サガン鳥栖>
赤星拓(GK/所属期間:2007~2018年7月)
インパクトなら豊田だが、この守護神をチョイス。福岡大から加入すると、J1昇格を目指し、誰よりも熱くプレー。昇格決定後にミックスゾーンで流していた感動の涙を、今も忘れられない。(選者/荒木英喜)
<横浜FC>
山口素弘(MF/所属期間:2005~2007年)
チーム誕生の起源を持つ横浜Fで主将を務めた男は、06年のJ1初昇格に貢献。引退後に監督として三ツ沢へ戻ってきたことは、クラブの、そしてJリーグの歴史を感じさせた。(選者/二本木昭=フリーライター)
構成●サッカーダイジェスト編集部
FW浅野拓磨が広島時代を回顧…DF千葉和彦から受けた“あの言葉”「ほんまに大きかった」
セルビアリーグのパルチザンに所属するFW浅野拓磨は5月31日、自身のツイッター(@AsaTaku29)を更新し、名古屋グランパスDF千葉和彦とのサンフレッチェ広島時代の思い出を語っている。
浅野は5月30日にセルビアリーグ再開初戦となる第27節に先発出場。前半のみで交代となったが、1ゴール1アシストと結果を残し、4-1の白星スタートに大きく貢献した。しかし、首位レッドスターが他会場で優勝を決めたため、パルチザンの優勝も消滅。試合後のツイッターでは「リーグ優勝は無くなったけどカップ戦も残ってるのでリーグは2位でカップ戦は優勝目指して頑張ります」と伝えていた。
再開初戦の後、浅野は再びツイッターを更新。広島時代のチームメートだった千葉がツイッター(@ChibaKazuhiko)で「ミスない人間なんていない!ミスは成長!ミスは深み!」とコメントしており、それに返事をする形で、千葉との思い出を語った。
「広島時代に俺のミスから失点して負けた試合で千葉くんに『お前まだ一回しかミスして失点してねーじゃねーか!俺なんて50回以上してるよ!それくらいミスしないとまだプロじゃねぇぞ!』って笑いながら言われたことを思い出します。あの言葉ほんまに大きかった。そして次の試合でJリーグ初ゴール」
浅野がJリーグ初ゴールを挙げたのは、2015年4月18日のJ1第1ステージ第6節・FC東京戦(○2-1)。1-1で迎えた後半37分、途中出場の浅野はFWドウグラスからのパスを中盤で受け、そのままドリブルで仕掛ける。PA内でDF森重真人ら相手守備陣をかわすと、右足シュートでゴール。リーグ戦通算16試合目での待望の初ゴールが決勝点となっていた。
浅野は5月30日にセルビアリーグ再開初戦となる第27節に先発出場。前半のみで交代となったが、1ゴール1アシストと結果を残し、4-1の白星スタートに大きく貢献した。しかし、首位レッドスターが他会場で優勝を決めたため、パルチザンの優勝も消滅。試合後のツイッターでは「リーグ優勝は無くなったけどカップ戦も残ってるのでリーグは2位でカップ戦は優勝目指して頑張ります」と伝えていた。
再開初戦の後、浅野は再びツイッターを更新。広島時代のチームメートだった千葉がツイッター(@ChibaKazuhiko)で「ミスない人間なんていない!ミスは成長!ミスは深み!」とコメントしており、それに返事をする形で、千葉との思い出を語った。
「広島時代に俺のミスから失点して負けた試合で千葉くんに『お前まだ一回しかミスして失点してねーじゃねーか!俺なんて50回以上してるよ!それくらいミスしないとまだプロじゃねぇぞ!』って笑いながら言われたことを思い出します。あの言葉ほんまに大きかった。そして次の試合でJリーグ初ゴール」
浅野がJリーグ初ゴールを挙げたのは、2015年4月18日のJ1第1ステージ第6節・FC東京戦(○2-1)。1-1で迎えた後半37分、途中出場の浅野はFWドウグラスからのパスを中盤で受け、そのままドリブルで仕掛ける。PA内でDF森重真人ら相手守備陣をかわすと、右足シュートでゴール。リーグ戦通算16試合目での待望の初ゴールが決勝点となっていた。
広島GK大迫、歴代防御率トップ 代表でも期待
再開まで待ち切れない。新型コロナウイルスの影響で今シーズンのJリーグは2月23日の試合を最後に中断していたが、J1は7月4日、J2は6月27日から再開することが決まった。スポーツのデータを重視する日刊スポーツでは、これまでの好記録や今季達成されそうな記録など知っておいて損はないJリーグの注目すべき数字を取り上げ、数々の見どころを随時紹介します。第1回は次世代の日本代表守護神、サンフレッチェ広島GK大迫敬介(20)を取り上げます。
◇ ◇ ◇
20歳の広島GK大迫がJリーグの公式記録であるGK通算防御率でJ1歴代トップの座に就いている。2月23日のJ1開幕節鹿島戦(Eスタ)でフル出場し、3-0の完封勝利に貢献。J1通算の出場時間は2700分(30試合フル出場)となり、GK通算防御率の規定出場時間に到達した。通算の失点数は24点で、1試合90分換算の失点は0・80点。00~03年に磐田の黄金期を支えたGKヴァン・ズワムの0・89点を抜いて首位に躍り出た。
持ち味はシュートストップだが、日本代表の森保監督は「DFと連係し、いかに楽にGKに飛ぶようにするか練習しているはず」と評価する。サッカー分析会社「データスタジアム」の集計によれば、相手の前方へのパスに飛び出して「キャッチ」した回数は昨季のJ1で最多85回。抜群の判断力と守備範囲の広さで、相手の決定機の芽を摘む。
01年からJリーグの公式記録に採用された「GK通算防御率」において、20歳以下で規定の2700分出場に到達は史上6人目(公式採用前含む)。過去の5人は全てA代表招集歴があり、うち4人がオリンピック(五輪)本大会で正GKを務めた。大迫には1年延期になった東京五輪だけでなく、次世代の日本代表守護神としても期待が懸かる。
佐藤寿人が選ぶJ歴代最強チーム「華やかさと強さを兼ね備えた稀なチーム。顔ぶれは豪華そのもの」
5月28日発売のサッカーダイジェストでは、「Jリーグ歴代最強チーム」と題し、現役選手や元日本代表など総勢50名に“歴代で最強だと思うチームトップ3”を選んでもらっている。ここではその一部として、Jリーグ切ってのストライカーである佐藤寿人(千葉)が考える“歴代最強チーム・トップ3”を紹介しよう。
――◆――◆――
「佐藤寿人が選ぶ“最強チームトップ3”」
1位:2001年のジュビロ磐田
2位:2009年の鹿島アントラーズ
3位:2015年のサンフレッチェ広島
実際に対戦して衝撃を受けたのは、01年の磐田ですね。僕は2000年にプロデビューし、01年の磐田との開幕戦でJ初ゴールを決めたんです。でも試合は1-4の完敗。当時の磐田のスタメンは、ほぼ日本代表という顔ぶれで、中山(雅史)さん、高原(直泰)さんの強力2トップに加え、“N-BOX”と呼ばれた中盤も豪華そのもの。
名波(浩)さんがチームを操り、(藤田)俊哉さん、奥(大介)さんは、どんどん前に出てゴールを奪っていました。それに選手層も厚く、誰もが個性的で、チームに貢献していました。勝てるイメージをなかなか持てなかったですよね。あれほど強さと華やかさを兼備したチームは、稀なんじゃないでしょうか。
09年の鹿島は、Jリーグで唯一3連覇を果たした07年からのチームとして挙げました。トータルの力で見れば、1位の磐田のほうが上だとは思うんです。でも、勝負強さで言えばあの時の鹿島は歴代トップかなと。勝つために何をするべきかチーム全体で整理されていて、全員のベクトルが合っていた。そうでないと、3連覇は成し遂げられませんよ。
僕も広島時代にリーグ連覇を経験しましたが、3連覇は本当に難しい。周囲から徹底的にマークされますし、勝てば勝つほど日程は厳しくなりますからね。そうした“壁”をすべて越えなくちゃいけない。シーズンを戦っていけば浮き沈みもあります。その点で、鹿島はフロントを含めて明確なビジョン、哲学を持っていた点が大きかったんだと感じます。
(小笠原)満男さんの活躍も光りましたよね。すべてが高レベルで、根底には“目の前の相手に負けない”というサッカーで最も大事な気持ちを持っていました。あの時の鹿島は、満男さん抜きで語たることはできません。
ちなみに口数は少ないように見えますが、実際に話すとそんなことはないんです。代表で一緒になった時は、すごく話しかけてくれて、ギャップに驚かされました(笑)。
そして僕がプレーをした広島では、15年のチームを選びました。12、13年はリーグ初優勝を含めて連覇を果たすも、14年は8位。15年は選手も抜け、チームとして危機感が強まっていたんです。Jリーグではちょっとしたボタンの掛け違いでJ2降格を喫したチームがありますからね。ただ危機感が良い競争を生み、やるべきことを徹底できた。当時は僕もポジションを掴むために必死でした。
振り返ればコンビネーションが成熟し、主力選手の状態も良かった12年のチームのほうが、サッカーの質は高かったかもしれません。ただ15年は(浅野)拓磨ら若手が逞しく成長し、全員の力で戦い抜けた。森保(一)監督のベンチワークも素晴らしく、結果的には勝点も得点も最も良い成績を残せました(年間勝点74はJ1史上最多タイ。平均得点2.15はクラブ歴代最多)。
あのシーズンはドウグラスも奮闘したとはいえ、MVPはやっぱりトシ(青山敏弘)ですよ。確か13年まで僕がキャプテンをやってトシに引き継いだんです。でも14年は優勝を逃し、トシとしては葛藤があったんだと思います。だからこそチームを牽引した15年の活躍は心から嬉しかったですし、リーグMVPにも選ばれましたからね。誇らしかったです。
――◆――◆――
取材・文●本田健介(サッカーダイジェスト編集部)
※『サッカーダイジェスト』2020年6月11・25合併号より転載。
塩谷司を変えた母親と恩師の言葉
「あの日から、あきらめなくなった」
UAE(アラブ首長国連邦)のアル・アインFCに加入して3シーズン目を迎えている塩谷司だが、あの日、背中を押してもらっていなければ、今の彼はなかったかもしれない。
サンフレッチェ広島でJ1優勝を経験することも、海を渡りアル・アインFCでプレーすることも、それこそFIFAクラブワールドカップでレアル・マドリードを相手にゴールを決めることも……。
サンフレッチェ広島でJ1優勝を経験することも、海を渡りアル・アインFCでプレーすることも、それこそFIFAクラブワールドカップでレアル・マドリードを相手にゴールを決めることも……。
「俺、大学を途中でやめて就職しようと思っていたんですよね……」
そう言うと、塩谷は自らのキャリアを振り返ってくれた。
「もともと、高校を卒業したら就職するつもりだったんです。僕が通っていたのは徳島商業高校。同級生の半数は、卒業したら県内の企業に就職するような学校でした。うちはあまり裕福ではなかったですし、弟もふたりいたので、早く就職して家族を少しでも楽にさせてあげるべきだと思っていたんです」
そう言うと、塩谷は自らのキャリアを振り返ってくれた。
「もともと、高校を卒業したら就職するつもりだったんです。僕が通っていたのは徳島商業高校。同級生の半数は、卒業したら県内の企業に就職するような学校でした。うちはあまり裕福ではなかったですし、弟もふたりいたので、早く就職して家族を少しでも楽にさせてあげるべきだと思っていたんです」
高校まで続けてきたサッカーにしても、社会人のチームに入って、趣味で続けていこうと考えていた。ところが、そんな塩谷のもとに東京・国士舘大学から声がかかる。
「授業料も免除というわけではなかったんですけど、親と何度も相談して話し合った結果、勝負してみたいという気持ちになったんです。基本的には、やりたいことはやらせようとしてくれる親だったので、負担はかけますけど、奨学金を借りつつ、『最後に好きなサッカーをがんばっておいで』ということで送り出してくれたんです」
意気揚々と地元・徳島を飛び出せたのは、親の後押しがあったからだった。
希望を胸に抱いて、塩谷は国士舘大学に進学した。ところが、いきなり大きくつまずいてしまう。
「入学式前に新入生たちが集まって、練習に参加する機会があったんです。周りを見たら、全国の有名な高校やクラブチームから選手たちが来ていて、みんなものすごくレベルが高かった。自分は実績があるわけじゃないし、田舎から出てきたこともあって、圧倒されてしまったというか」
「授業料も免除というわけではなかったんですけど、親と何度も相談して話し合った結果、勝負してみたいという気持ちになったんです。基本的には、やりたいことはやらせようとしてくれる親だったので、負担はかけますけど、奨学金を借りつつ、『最後に好きなサッカーをがんばっておいで』ということで送り出してくれたんです」
意気揚々と地元・徳島を飛び出せたのは、親の後押しがあったからだった。
希望を胸に抱いて、塩谷は国士舘大学に進学した。ところが、いきなり大きくつまずいてしまう。
「入学式前に新入生たちが集まって、練習に参加する機会があったんです。周りを見たら、全国の有名な高校やクラブチームから選手たちが来ていて、みんなものすごくレベルが高かった。自分は実績があるわけじゃないし、田舎から出てきたこともあって、圧倒されてしまったというか」
当時18歳だった塩谷は、こうも思ったという。
「4年間、こんなにうまい人たちと一緒にサッカーをするのか。俺、もうダメかもしれないな」
幸運にも1年生の前期リーグはメンバーに入ると、途中出場ではあったが数試合でチャンスをもらった。ただ、自信のなさがプレーにも表れていたのだろう。徐々に出番は遠のくと、ついにはメンバーにも選ばれなくなった。
「同級生にも先発で試合に出ている選手がいて、『こういう人がプロになるんだろうな』って思いましたよね。そこから、『俺はもう無理だな』って思って……。今、考えると、その時から真面目にサッカーをやらなくなってしまったんですよね」
徳島で育った青年にとって、都会の街は刺激もあれば、誘惑も多かった。サッカーが楽しくなく、遊ぶことに意識が奪われ、どうすれば練習をサボれるかと考えることもあった。
「サッカー部の練習は本当にきつくて、当時は走るだけで1日が終わる日もありました。でも俺は、自分が悪いのではなく、監督が自分のことを好きじゃないだけだって思っていたんです。周りよりもできるのに、評価してくれないって。
「4年間、こんなにうまい人たちと一緒にサッカーをするのか。俺、もうダメかもしれないな」
幸運にも1年生の前期リーグはメンバーに入ると、途中出場ではあったが数試合でチャンスをもらった。ただ、自信のなさがプレーにも表れていたのだろう。徐々に出番は遠のくと、ついにはメンバーにも選ばれなくなった。
「同級生にも先発で試合に出ている選手がいて、『こういう人がプロになるんだろうな』って思いましたよね。そこから、『俺はもう無理だな』って思って……。今、考えると、その時から真面目にサッカーをやらなくなってしまったんですよね」
徳島で育った青年にとって、都会の街は刺激もあれば、誘惑も多かった。サッカーが楽しくなく、遊ぶことに意識が奪われ、どうすれば練習をサボれるかと考えることもあった。
「サッカー部の練習は本当にきつくて、当時は走るだけで1日が終わる日もありました。でも俺は、自分が悪いのではなく、監督が自分のことを好きじゃないだけだって思っていたんです。周りよりもできるのに、評価してくれないって。
完全に人のせいにしていたんですよね。試合に起用してもらえない理由を、自分ではなく、外部にあると決めつけていたんです。今、思うと、自分が指導者だったとしたら、当時の自分は100%使わないと思います」
自身がそう言い切るほどの状態だったわけだ。
幸いトップチームから落とされることはなかったが、覇気のない生活は続いていた。正月に帰省した時には、後ろめたさから家にいることが窮屈になり、すぐに友人と遊びに出掛けた。サッカーの話題に触れられるのが怖かったのだ。
そんな塩谷にとって大学3年の時、人生を変える大きな出来事が起こる。父親の死だった。
「大学3年の夏前に父親が急死したんです。弟たちには高校も卒業させてあげたかったし、大学にも行かせてあげたいって思った。将来、何になりたいって言うかはわからなかったけど、徳島に帰って働いたほうがいいだろうなって思ったんです。
大学では試合にも出ていないし、練習もきついだけだし、そんなんだったら、一番下の弟が働き出すまでは、自分が家族のことを支えたほうがいいかなって。父親が亡くなった時は、本気でそう思ったんです」
自身がそう言い切るほどの状態だったわけだ。
幸いトップチームから落とされることはなかったが、覇気のない生活は続いていた。正月に帰省した時には、後ろめたさから家にいることが窮屈になり、すぐに友人と遊びに出掛けた。サッカーの話題に触れられるのが怖かったのだ。
そんな塩谷にとって大学3年の時、人生を変える大きな出来事が起こる。父親の死だった。
「大学3年の夏前に父親が急死したんです。弟たちには高校も卒業させてあげたかったし、大学にも行かせてあげたいって思った。将来、何になりたいって言うかはわからなかったけど、徳島に帰って働いたほうがいいだろうなって思ったんです。
大学では試合にも出ていないし、練習もきついだけだし、そんなんだったら、一番下の弟が働き出すまでは、自分が家族のことを支えたほうがいいかなって。父親が亡くなった時は、本気でそう思ったんです」
だから、葬儀が終わってひと段落すると、母親にこう切り出した。
「俺、大学やめて、こっちで働くよ」
だが、母親は首を縦には振らなかった。
「そんなにすぐ、将来のことを決めなくてもいいんじゃない。道を探せば、大学を卒業する方法も見つかるかもしれないんだから」
サッカー部の細田三二監督にも電話し、大学をやめて地元で働こうと考えていると伝えた。ただ、母親と同じく、恩師はうなずかなかった。
「授業料のことも含めて、可能なかぎり工面できるように働きかけてみるから、卒業するまでがんばったらどうだって言ってくれたんですよね。せっかく半分以上通った大学なんだから、卒業しようって。その時、試合にも出ていない選手のために、そこまでしてくれるのかって思ったんです」
心が揺さぶられたというよりも、心が震えた。
母親にそのことを話し、「俺、もうちょっとがんばってみたい」と告げると、「こっちでできることはするから」と、再び背中を押してくれた。
「俺、大学やめて、こっちで働くよ」
だが、母親は首を縦には振らなかった。
「そんなにすぐ、将来のことを決めなくてもいいんじゃない。道を探せば、大学を卒業する方法も見つかるかもしれないんだから」
サッカー部の細田三二監督にも電話し、大学をやめて地元で働こうと考えていると伝えた。ただ、母親と同じく、恩師はうなずかなかった。
「授業料のことも含めて、可能なかぎり工面できるように働きかけてみるから、卒業するまでがんばったらどうだって言ってくれたんですよね。せっかく半分以上通った大学なんだから、卒業しようって。その時、試合にも出ていない選手のために、そこまでしてくれるのかって思ったんです」
心が揺さぶられたというよりも、心が震えた。
母親にそのことを話し、「俺、もうちょっとがんばってみたい」と告げると、「こっちでできることはするから」と、再び背中を押してくれた。
「あとあと聞いたら、母親はお金を借りたりとか、大変な思いをさせていたみたいなんですけど、サッカーを続けられるようにしてくれたんですよね。先生もそうだし、母親もそうだし、ふたりの弟も『兄ちゃんがんばれ』って感じで。あとは地元の友人たちも、大学の同級生も、みんながみんな、自分を支えてくれたんです」
その日から、塩谷は変わった。
「それからは一度もクサらなかったですね。2年近く、真剣に練習に取り組んでいなかったので、すぐに試合に出られるわけではなかったですけど、何とかしてやるって、ずっと思ってました」
塩谷は言う。
「あの日から、俺はあきらめなくなった気がします。自分がダメな理由を外に置かなくなった」
3年生の時は、結果的にほとんど試合には出られなかったというが、その年の終わりにCBへと転向させられたことが、プロへの契機となった。
「自分を大学に誘ってくれた人も『お前がサッカーでメシを食っていくなら、絶対にCBだ!』って言ってくれていたんですよね」
その日から、塩谷は変わった。
「それからは一度もクサらなかったですね。2年近く、真剣に練習に取り組んでいなかったので、すぐに試合に出られるわけではなかったですけど、何とかしてやるって、ずっと思ってました」
塩谷は言う。
「あの日から、俺はあきらめなくなった気がします。自分がダメな理由を外に置かなくなった」
3年生の時は、結果的にほとんど試合には出られなかったというが、その年の終わりにCBへと転向させられたことが、プロへの契機となった。
「自分を大学に誘ってくれた人も『お前がサッカーでメシを食っていくなら、絶対にCBだ!』って言ってくれていたんですよね」
当時、コーチとして大学の練習を見てくれていた柱谷哲二に見初められ、水戸ホーリーホックで塩谷はプロのキャリアをスタートさせた。
「4年の時は、ずっと試合に出続けることができたんです。今までにない充実感を得ることができた。哲さん(柱谷)が誘ってくれるまで、プロから声はかからなかったですけど、自分の中ではやり切ったと思えたというか。
あの2年間もちゃんとやっておけばよかったという後悔はありましたけど、自分にできることは全部やった。だから、もう二度とクサることはないだろうなって思えました」
プロサッカー選手として一歩を踏み出すきっかけを与えてくれた柱谷には、「ラスト10分や5分といったみんなが一番苦しい時に、高い集中力とパワーを出せる選手になれ」と教えられたという。
思い起こせば、FIFAクラブワールドカップで、レアル・マドリードを相手に一矢報いる得点を奪ったのは、試合終了間際、89分だった。
「4年の時は、ずっと試合に出続けることができたんです。今までにない充実感を得ることができた。哲さん(柱谷)が誘ってくれるまで、プロから声はかからなかったですけど、自分の中ではやり切ったと思えたというか。
あの2年間もちゃんとやっておけばよかったという後悔はありましたけど、自分にできることは全部やった。だから、もう二度とクサることはないだろうなって思えました」
プロサッカー選手として一歩を踏み出すきっかけを与えてくれた柱谷には、「ラスト10分や5分といったみんなが一番苦しい時に、高い集中力とパワーを出せる選手になれ」と教えられたという。
思い起こせば、FIFAクラブワールドカップで、レアル・マドリードを相手に一矢報いる得点を奪ったのは、試合終了間際、89分だった。
「プロになってから試合中に人のせいにしてしまったこともありますし、練習も100%だったかと言われたら、まだまだ甘かったなと思うところもあります。だけど、そこからいろいろなことを経験して、素晴らしいチームメイトと、素晴らしい指導者と、いろいろな人に出会うことができた。
それもこれも、父親が亡くなった時にあきらめてしまっていたら、今の自分はないんですよね。水戸でスタートしたプロのキャリアもそうですし、広島でのJ1優勝もそうですし、この年齢までサッカーができているのは、あきらめなかったから。だから、あきらめないことって大事なんだなって思います」
自分自身があきらめなかったからこそ、今の自分がある。一方で、あきらめることを選択させないようにしてくれた人たちがいることも知っている。だからこそ、塩谷はどんなに逆境に立たされようとも、出会った人たちに感謝しながらプレーしている。
それもこれも、父親が亡くなった時にあきらめてしまっていたら、今の自分はないんですよね。水戸でスタートしたプロのキャリアもそうですし、広島でのJ1優勝もそうですし、この年齢までサッカーができているのは、あきらめなかったから。だから、あきらめないことって大事なんだなって思います」
自分自身があきらめなかったからこそ、今の自分がある。一方で、あきらめることを選択させないようにしてくれた人たちがいることも知っている。だからこそ、塩谷はどんなに逆境に立たされようとも、出会った人たちに感謝しながらプレーしている。
塩谷司が生活するコロナ禍のUAE。
日本とは違う「さまざまな規制がある」
塩谷司がサンフレッチェ広島からUAE(アラブ首長国連邦)のアル・アインFCに移籍して、3年の月日が過ぎようとしている。世界的に新型コロナウイルス感染症が広がっている今、UAEで生活する彼にも大きく影響が出ているという。 自宅から画面越しにインタビューに応じてくれた塩谷は、開口一番、こう言った。
「今は日本よりも、こっちのほうが被害は拡大しているかもしれないですね」
WHO(世界保健機関)による世界各国の感染拡大状況を確認すれば、5月24日の時点でUAEの感染者数は2万8000人を越えているとの報告がある。
「僕自身、国内における正確な感染者数を把握しているわけではないのですが、かなりの検査を実施しているとは聞いています。UAEは約8割が他国から出稼ぎに来ている人たち。そうした人たちは大部屋で生活していたりと、感染しやすい状況にあるみたいなんです。
「今は日本よりも、こっちのほうが被害は拡大しているかもしれないですね」
WHO(世界保健機関)による世界各国の感染拡大状況を確認すれば、5月24日の時点でUAEの感染者数は2万8000人を越えているとの報告がある。
「僕自身、国内における正確な感染者数を把握しているわけではないのですが、かなりの検査を実施しているとは聞いています。UAEは約8割が他国から出稼ぎに来ている人たち。そうした人たちは大部屋で生活していたりと、感染しやすい状況にあるみたいなんです。
国としても、そうした状況からさまざまな規制を設けていて。たとえば、クルマには3人以上で乗ってはいけないし、お店でもソーシャルディスタンスを守らなければ罰則があったり、マスクをせずに外出したら罰金があったり。ラマダンの時期は少し規制も緩和されたんですけど、それが終わるということで再び規制が厳しくなってきたところはあります」
とくに夜間は、医療従事者をはじめ、国から許可を得られた人でなければ外出することはできないという。実際、塩谷も食事はデリバリーサービスを利用するなど、可能なかぎり外出を控え、家族と自宅内で過ごす日々が続いているという。
「3月中旬にトレーニングも中止になって、選手も自宅待機になったんです。それで家でトレーニングができるようにと、急いでトレッドミル(ルームランナー)やエアロバイクを買いに行ったんですけど、その翌日に外出禁止になったので、本当に買っておいてよかったなと。
とくに夜間は、医療従事者をはじめ、国から許可を得られた人でなければ外出することはできないという。実際、塩谷も食事はデリバリーサービスを利用するなど、可能なかぎり外出を控え、家族と自宅内で過ごす日々が続いているという。
「3月中旬にトレーニングも中止になって、選手も自宅待機になったんです。それで家でトレーニングができるようにと、急いでトレッドミル(ルームランナー)やエアロバイクを買いに行ったんですけど、その翌日に外出禁止になったので、本当に買っておいてよかったなと。
当初、リーグは5月くらいに再開する予定で話が進んでいたんですけど、それも難しくなり、さらに自粛期間が延長され、今は8月の再開を目指して取り組んでいくことになりました。これも現時点での発表なので、変更になるかもしれないですけどね」
所属するアル・アインFCが参加するアラビアン・ガルフ・リーグは、シーズンの佳境を迎えていた。2019−20シーズンのリーグ戦は残り6試合で、アル・アインFCはカップ戦の決勝も戦う予定だった。
「当初はトレーニングしていたんですけど、再開が8月に伸びたので、今は負荷をかけるトレーニングは一旦、やめています。本来なら5月中にはリーグ戦も終わって、日本に帰国している時期なんですけどね。こうした状況では、帰国するわけにもいかないですから。
ただ、6月中旬にチームが再始動するという連絡があったので、そろそろ本格的に動き出そうかなとは思っています。リーグ再開後、残りの公式戦を戦うのか、それとも新シーズンとして始まるのかは、まだ決まっていないみたいなんですけど」
所属するアル・アインFCが参加するアラビアン・ガルフ・リーグは、シーズンの佳境を迎えていた。2019−20シーズンのリーグ戦は残り6試合で、アル・アインFCはカップ戦の決勝も戦う予定だった。
「当初はトレーニングしていたんですけど、再開が8月に伸びたので、今は負荷をかけるトレーニングは一旦、やめています。本来なら5月中にはリーグ戦も終わって、日本に帰国している時期なんですけどね。こうした状況では、帰国するわけにもいかないですから。
ただ、6月中旬にチームが再始動するという連絡があったので、そろそろ本格的に動き出そうかなとは思っています。リーグ再開後、残りの公式戦を戦うのか、それとも新シーズンとして始まるのかは、まだ決まっていないみたいなんですけど」
普段、家事などは妻に任せっきりだという塩谷も、自粛期間中は手伝うなどして分担していると教えてくれた。また、UAEでの生活が長くなっている子どもたちは、英語を話す機会が多く、いずれ日本に戻った時のことを考えて、日本語の読み書きを教えているとも話してくれた。
「日本でプレーしている選手たちとは、それほど連絡は取っていないですね。広島時代のチームメイトだと、少し前に(佐藤)寿人さん(ジェフ千葉)と連絡を取ったかな。(清水)航平とは『Instagram』でライブ配信をやろうという話になったんですけど、UAEは規制があってできなかったんです(苦笑)。
ほかには、東京ヴェルディの小池純輝くんと『zoom』で会話しました。あとは地元・徳島でサッカースクールを開設したんですけど、オンラインで子どもたちと一緒にトレーニングをしています」
日本の状況は、サッカーを通じた仲間や知人たち、ニュースを通して確認しているという。遠く離れた場所で生活する塩谷だが、自分がお世話になった土地や人々に、何か力になることはできないかと行動を起こしていた。
「日本でプレーしている選手たちとは、それほど連絡は取っていないですね。広島時代のチームメイトだと、少し前に(佐藤)寿人さん(ジェフ千葉)と連絡を取ったかな。(清水)航平とは『Instagram』でライブ配信をやろうという話になったんですけど、UAEは規制があってできなかったんです(苦笑)。
ほかには、東京ヴェルディの小池純輝くんと『zoom』で会話しました。あとは地元・徳島でサッカースクールを開設したんですけど、オンラインで子どもたちと一緒にトレーニングをしています」
日本の状況は、サッカーを通じた仲間や知人たち、ニュースを通して確認しているという。遠く離れた場所で生活する塩谷だが、自分がお世話になった土地や人々に、何か力になることはできないかと行動を起こしていた。
「生まれ育った徳島や、長くプレーした広島には、家族もいれば知り合いもいて、病院では1週間続けて同じマスクを使用しているという話も聞きました。そうした状況を何とかできないだろうかと思っていたところ、知り合いを通じてマスクをまとめて購入できるという話をもらったんです。
徳島の感染者は比較的少ないみたいですけど、それでもマスクは不足しているという。広島も含めて、お世話になった土地や人たちの力に少しでもなれればなと」
その思いから、塩谷は広島市に8000枚、徳島市に1万枚のマスクを寄贈。約1年前に地元・徳島にサッカースクールを開校したことも含めて、そこには常に「感謝」の気持ちがある。
「関東近郊ならば、子どもたちがサッカーをする選択肢は、たくさんあると思うんです。チームもたくさんあって、いろいろな指導者もいる。でも、地方になると、活動しているチーム数も限られてくる。
僕が育った徳島は、グラウンドもかなり少ないんです。そうした環境を少しでもよくできたらいいなという思いは、ずっと、ずっとあった。だから、スクール事業を通して徳島のスポーツ界を活性させられたらいいなと」
徳島の感染者は比較的少ないみたいですけど、それでもマスクは不足しているという。広島も含めて、お世話になった土地や人たちの力に少しでもなれればなと」
その思いから、塩谷は広島市に8000枚、徳島市に1万枚のマスクを寄贈。約1年前に地元・徳島にサッカースクールを開校したことも含めて、そこには常に「感謝」の気持ちがある。
「関東近郊ならば、子どもたちがサッカーをする選択肢は、たくさんあると思うんです。チームもたくさんあって、いろいろな指導者もいる。でも、地方になると、活動しているチーム数も限られてくる。
僕が育った徳島は、グラウンドもかなり少ないんです。そうした環境を少しでもよくできたらいいなという思いは、ずっと、ずっとあった。だから、スクール事業を通して徳島のスポーツ界を活性させられたらいいなと」
立ち上げたばかりということで、まだスクール生はそれほど多くないというが、コロナ禍で行なったオンラインによる交流では、子どもたちのうれしそうな顔を見て、自分が起こした行動が力になっていることを実感できた。
「本来なら6月には日本に帰って、子どもたちと一緒にサッカーをする予定だったんですけどね。一緒にボールを蹴ることはできないですけど、今は毎週のようにオンラインで交流している。子どもたちみんなの顔を見ながら一緒にトレーニングをして、いろいろな話をする機会もできて、コロナ禍で大変ではありますけど、いいこともあったのかなって、前向きに考えています」
塩谷が生まれ育った故郷や長く住んだ土地に感謝を示すのには、理由がある。彼はこれまで歩んできた人たちによって、背中を押され、人生を導いてもらってきたからだ。
近況を聞き終えて話題を変えると、画面越しでもわかるくらい表情を変えた塩谷は語り出した。
「俺、大学を途中でやめて就職しようと思っていたんですよね……」
「本来なら6月には日本に帰って、子どもたちと一緒にサッカーをする予定だったんですけどね。一緒にボールを蹴ることはできないですけど、今は毎週のようにオンラインで交流している。子どもたちみんなの顔を見ながら一緒にトレーニングをして、いろいろな話をする機会もできて、コロナ禍で大変ではありますけど、いいこともあったのかなって、前向きに考えています」
塩谷が生まれ育った故郷や長く住んだ土地に感謝を示すのには、理由がある。彼はこれまで歩んできた人たちによって、背中を押され、人生を導いてもらってきたからだ。
近況を聞き終えて話題を変えると、画面越しでもわかるくらい表情を変えた塩谷は語り出した。
「俺、大学を途中でやめて就職しようと思っていたんですよね……」
さらに言葉は続く。
「もともと、性格的にはネガティブなところもあって、物事を悲観的に考えてしまうことが多かったんです。とくに学生時代は、世代別の代表に選ばれることもなければ、何かに引っかかるような選手でもなかったので。それでも、絶対にそうした選手たちよりも上に行ってやるんだという思いだけは持っていたんですけど、やっぱり……自分的に一番きつかったのは大学時代かな……」
それこそが、塩谷にとってのターニングポイントであり、人生で最も逆境に立たされた時期だった。
「もともと、性格的にはネガティブなところもあって、物事を悲観的に考えてしまうことが多かったんです。とくに学生時代は、世代別の代表に選ばれることもなければ、何かに引っかかるような選手でもなかったので。それでも、絶対にそうした選手たちよりも上に行ってやるんだという思いだけは持っていたんですけど、やっぱり……自分的に一番きつかったのは大学時代かな……」
それこそが、塩谷にとってのターニングポイントであり、人生で最も逆境に立たされた時期だった。
酒好きで破天荒な久保竜彦が、日本代表への扉を開いた“変化のきっかけ”
例えば1950~60年代のプロ野球には、酒豪伝説がてんこもりだった。「青バット」で知られ、戦後の日本プロ野球が生んだスター第1号とも言われる名スラッガー・大下弘は徹夜で浴びるように酒を飲み、二日酔いでボールが何重にも見えたなかで7打数7安打という日本記録を作ったという。もっともこれは、のちの作り話だったという説もあるが、大下が酒好きで飲み歩いていたことは事実だった。
サッカー選手も昔はよく酒を飲んでいたという話を聞くが、今の選手たちはほとんど、シーズン中は節制している。例えば佐藤寿人はワイン好きだが、楽しむのはシーズンが終わってからだとかつて話してくれた。現役時代の森﨑和幸も森﨑浩司も、シーズン中はほとんど酒をたしなまなかった。そもそもアルコールが好きではないという若手選手たちも増えている。世の流れである。
さて、久保竜彦の話である。先日、彼にZOOMでインタビュー(スマートフォンも持っていない彼がZOOMを使えるとは驚きなのだが、どうやら娘さんのおかげらしい)したのだが、20時からのインタビューだったのに17時から晩酌をやってビールも飲んでいた。
ただ、そのせいか、非常に口調は滑らか。現役時代の超絶無口ぶりから彼も成長し、今は素面でもしっかりと話してくれるのだが、酒が入ると昔も今も、よく喋ってくれる。適量であれば、アルコールも悪くはない。
だが久保の場合、若い頃はそれこそ、記憶がなくなるまで飲んでいた。流川という広島の繁華街で何度も杯を傾け、仲良くなった友だちと飲み続け、寮の近くにあった寿司屋の2階で酔い潰れて、そのまま二日酔いで練習場に直行したこともあったという。
実はこのお寿司屋の親父さんは、福岡の高校を卒業して広島にやってきた久保にとって父親代わりのような存在。寮から自転車で通える距離にあり、安くて美味しい魚料理が食べられるこの店は久保にとっては生活に欠かせない場所となっていた。
「タツはワシにとって3番目の息子」
そう言って可愛がっていた店の親父さんがあまりに無軌道な久保の姿を見かねて、「ええかげんにせえっ」と若者に愛の鞭を振るったこともあるという。それでも、久保の破天荒ぶりは直らなかった。
ただ面白いもので、無軌道極まりない生活を送っていたこの時期、彼はトップチームで活躍をし始めた。MFからFWに転向したことで、まるでアフリカの原野で育ったかのような身体能力が発揮されるようになり、2年目(96年)のナビスコカップで9試合4得点と足がかりを掴む。
ヤンセン監督(当時)から期待された彼はリーグ戦でも常時ベンチ入りを果たし、C大阪戦ではプロ初得点を含む2ゴールでチームを勝利に導いた。誰が見ても分かる凄い素質。柏・ニカノール監督(当時)が「日本の宝になる」と称した大器をなんとしてでも大成させたい。
動いたのは、今西和男総監督(当時)。Jリーグにおけるゼネラルマネジャーの先駆者とも言える指導者は、久保を成長させるには私生活の安定しかないと考え、彼にあることを勧めた。
結婚である。
実は久保には、高校時代から交際していた同級生の恋人の佳奈子さんがいた。彼自身、彼女との結婚も考えていたこともあり、総監督は「これだ」と考えた。当時、久保の両親も彼女の母親も「まだ早過ぎる」と結婚には反対していた。無理もない。
ふたりともまだ20歳。久保はプロ3年目で、レギュラーポジションをようやく掴んだばかりの時だ。「もう少し、待った方がいい」。そう考えても無理はない。
今西総監督は久保の両親に会い、「彼の素質は素晴らしい。結婚によって私生活が安定すれば、日本を代表する選手になれる」と説得した。この言葉が両親を動かし、流れは結婚へと傾いた。
一方、佳奈子さんの母親に対しては、若いふたりが熱意を込めて説得。試合が終わってそこから佳奈子さんが住む福岡に戻り、「結婚させてください。お願いします」と毎週のように久保は願いを母に伝えた。その回数は10回を超え、ついに承諾を勝ち取った。
98年7月20日、親戚とごく少数の友だちが集まっただけの小さな結婚式をあげ、ふたりは結婚した。その時を境に、まるで破滅に向かっているかのような酒に浸る日々は、なくなった。
酒そのものを止めたわけではないが、ある程度は節度を保てるようになり、体調管理に気を使ってクーラーを控えるようにもなった。試合中にイライラして投げやりになることもなくなり、サッカーのビデオを食い入るように見て研究する姿を新妻は何度も目撃した。
彼が初めて日本代表に選出されたのは、その年の10月。久保竜彦という若者の扉が未来に向けて大きく開き、その後の伝説を築いたのは、間違いなく「結婚」がきっかけだったのだ。
取材・文●中野和也(紫熊倶楽部)
サッカー選手も昔はよく酒を飲んでいたという話を聞くが、今の選手たちはほとんど、シーズン中は節制している。例えば佐藤寿人はワイン好きだが、楽しむのはシーズンが終わってからだとかつて話してくれた。現役時代の森﨑和幸も森﨑浩司も、シーズン中はほとんど酒をたしなまなかった。そもそもアルコールが好きではないという若手選手たちも増えている。世の流れである。
さて、久保竜彦の話である。先日、彼にZOOMでインタビュー(スマートフォンも持っていない彼がZOOMを使えるとは驚きなのだが、どうやら娘さんのおかげらしい)したのだが、20時からのインタビューだったのに17時から晩酌をやってビールも飲んでいた。
ただ、そのせいか、非常に口調は滑らか。現役時代の超絶無口ぶりから彼も成長し、今は素面でもしっかりと話してくれるのだが、酒が入ると昔も今も、よく喋ってくれる。適量であれば、アルコールも悪くはない。
だが久保の場合、若い頃はそれこそ、記憶がなくなるまで飲んでいた。流川という広島の繁華街で何度も杯を傾け、仲良くなった友だちと飲み続け、寮の近くにあった寿司屋の2階で酔い潰れて、そのまま二日酔いで練習場に直行したこともあったという。
実はこのお寿司屋の親父さんは、福岡の高校を卒業して広島にやってきた久保にとって父親代わりのような存在。寮から自転車で通える距離にあり、安くて美味しい魚料理が食べられるこの店は久保にとっては生活に欠かせない場所となっていた。
「タツはワシにとって3番目の息子」
そう言って可愛がっていた店の親父さんがあまりに無軌道な久保の姿を見かねて、「ええかげんにせえっ」と若者に愛の鞭を振るったこともあるという。それでも、久保の破天荒ぶりは直らなかった。
ただ面白いもので、無軌道極まりない生活を送っていたこの時期、彼はトップチームで活躍をし始めた。MFからFWに転向したことで、まるでアフリカの原野で育ったかのような身体能力が発揮されるようになり、2年目(96年)のナビスコカップで9試合4得点と足がかりを掴む。
ヤンセン監督(当時)から期待された彼はリーグ戦でも常時ベンチ入りを果たし、C大阪戦ではプロ初得点を含む2ゴールでチームを勝利に導いた。誰が見ても分かる凄い素質。柏・ニカノール監督(当時)が「日本の宝になる」と称した大器をなんとしてでも大成させたい。
動いたのは、今西和男総監督(当時)。Jリーグにおけるゼネラルマネジャーの先駆者とも言える指導者は、久保を成長させるには私生活の安定しかないと考え、彼にあることを勧めた。
結婚である。
実は久保には、高校時代から交際していた同級生の恋人の佳奈子さんがいた。彼自身、彼女との結婚も考えていたこともあり、総監督は「これだ」と考えた。当時、久保の両親も彼女の母親も「まだ早過ぎる」と結婚には反対していた。無理もない。
ふたりともまだ20歳。久保はプロ3年目で、レギュラーポジションをようやく掴んだばかりの時だ。「もう少し、待った方がいい」。そう考えても無理はない。
今西総監督は久保の両親に会い、「彼の素質は素晴らしい。結婚によって私生活が安定すれば、日本を代表する選手になれる」と説得した。この言葉が両親を動かし、流れは結婚へと傾いた。
一方、佳奈子さんの母親に対しては、若いふたりが熱意を込めて説得。試合が終わってそこから佳奈子さんが住む福岡に戻り、「結婚させてください。お願いします」と毎週のように久保は願いを母に伝えた。その回数は10回を超え、ついに承諾を勝ち取った。
98年7月20日、親戚とごく少数の友だちが集まっただけの小さな結婚式をあげ、ふたりは結婚した。その時を境に、まるで破滅に向かっているかのような酒に浸る日々は、なくなった。
酒そのものを止めたわけではないが、ある程度は節度を保てるようになり、体調管理に気を使ってクーラーを控えるようにもなった。試合中にイライラして投げやりになることもなくなり、サッカーのビデオを食い入るように見て研究する姿を新妻は何度も目撃した。
彼が初めて日本代表に選出されたのは、その年の10月。久保竜彦という若者の扉が未来に向けて大きく開き、その後の伝説を築いたのは、間違いなく「結婚」がきっかけだったのだ。
取材・文●中野和也(紫熊倶楽部)
広島城福監督、再開は「皆さまが自制努力した結果」
サンフレッチェ広島は29日、J1再開が7月4日に決定したことを受け、コメントを発表した。
城福浩監督(59)は「今回の決定はサッカー界のみならず、すべての皆さまが自制し、努力していただいた結果です。ありがたいですし、大変、感謝しています。我々は再開に向けて最大限の工夫と努力をしてきたつもりですし、それはこれからも変わりません。再開を心待ちにしている方々を元気にできるように、これからも精進していきます」。
主将のDF佐々木翔(30)は「再開日が決まり、うれしく思います。ただ、新型コロナウイルスは終息したわけではなく、引き続き、個人としてもチームとしても感染予防に努めながら再開に向けて準備していきます。そして試合が始まれば、応援してくださる皆さまを元気にする熱い戦いを見せられるように、頑張りたいと思います」。
Jリーグはこの日、オンラインで各クラブと臨時の実行委員会を開き、J1は7月4日からの再開と、再開直後は無観客で開催することを決めた。
「希望や勇気を」広島が「広島サッカーの歴史」開設
サンフレッチェ広島は28日、クラブの公式ホームページ内に「広島サッカーの歴史」を開設したことを発表した。
このページは、広島県協会が10年に発行した「栄光の足跡 広島サッカー85年史」の内容を、同協会の承認を得て要約・抜粋し、作成したもの。
クラブ側は「75年前、被ばくの惨禍から立ち上がった広島の人々に勇気や希望を与えたのは、サッカーをはじめとするスポーツでした。時代は変わり、新型コロナウイルスのまん延によって普段の生活とはかけ離れた状態になった今、また、日常の生活に戻る希望になれるよう、この歴史を振り返るとともに、サッカー、ひいてはサンフレッチェ広島が皆さんの希望や勇気を与えられる存在になれたらと思い、今回この広島の歴史ページを作成するにいたりました」と説明している。
無名選手の育成法から衝撃の“カップ粉砕”事件まで…風間八宏氏が明かす94サンフレッチェの真実
新型コロナウイルスの影響で2月下旬に中断したJリーグは、緊急事態宣言の解除とともにようやく再開への道筋が見え始めてきたものの、依然として中断が続いている。試合観戦ができない日々を過ごすファンのために、「DAZN」では「Re-Live」と称して過去の名勝負を放送中だ。今回は、現在配信中のサンフレッチェ広島が初のステージ優勝を果たした1994年Jリーグ第1ステージ21節・ジュビロ磐田vsサンフレッチェ広島で解説を務めた風間八宏氏に、当時の特徴的なチーム作りや優勝時のエピソードなどについて振り返ってもらった。
94年のJリーグ第1ステージ(サントリーシリーズ)は、スチュワート・バクスター監督が3年目を迎えた広島が開幕6連勝と波に乗る。しかし、7節でヴェルディ川崎に0-5と大敗し、優勝争いのライバルとなった清水エスパルスに首位の座を譲ると、9節にはその清水に敗戦。中盤戦は我慢の時期を強いられた。
しかし、その後の清水の失速とともに再び首位に立った広島は、ホームで敗れていたV川崎や清水を破り、首位固めに成功。そして21節の磐田戦で2-1の逆転勝利を収めた広島は、ついに念願の優勝カップを手にすることになるのだが・・・。
――◆――◆――
94年のサントリーシリーズを制覇したサンフレッチェ広島というチームは、いろんな意味でストーリーがあるチームでした。バクスター監督が指揮を執る前から、やはり今西さん(※今西和男氏/現吉備国際大教授)がすごく高校生の選手を獲ってくるのが上手くて、彼らをまたしっかり教育していたんです。
森保(一/日本代表監督)や森山(佳郎/U-17日本代表監督)、前川(和也/バイエルン・ツネイシ監督)、柳本(啓成/元日本代表)、それから笛(真人/現指導者)や島(卓視/現指導者)、久保タツ(竜彦/元日本代表)もそうだし、みんながまだ知らない選手を獲ってきて、文章を書くことやグループでの活動なんかを積極的にやらせたり、あとで聞いた話では英語の勉強もさせていたみたいで。本当に英語ができるようになったかは知りませんけどね(笑)。
94年のJリーグ第1ステージ(サントリーシリーズ)は、スチュワート・バクスター監督が3年目を迎えた広島が開幕6連勝と波に乗る。しかし、7節でヴェルディ川崎に0-5と大敗し、優勝争いのライバルとなった清水エスパルスに首位の座を譲ると、9節にはその清水に敗戦。中盤戦は我慢の時期を強いられた。
しかし、その後の清水の失速とともに再び首位に立った広島は、ホームで敗れていたV川崎や清水を破り、首位固めに成功。そして21節の磐田戦で2-1の逆転勝利を収めた広島は、ついに念願の優勝カップを手にすることになるのだが・・・。
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94年のサントリーシリーズを制覇したサンフレッチェ広島というチームは、いろんな意味でストーリーがあるチームでした。バクスター監督が指揮を執る前から、やはり今西さん(※今西和男氏/現吉備国際大教授)がすごく高校生の選手を獲ってくるのが上手くて、彼らをまたしっかり教育していたんです。
森保(一/日本代表監督)や森山(佳郎/U-17日本代表監督)、前川(和也/バイエルン・ツネイシ監督)、柳本(啓成/元日本代表)、それから笛(真人/現指導者)や島(卓視/現指導者)、久保タツ(竜彦/元日本代表)もそうだし、みんながまだ知らない選手を獲ってきて、文章を書くことやグループでの活動なんかを積極的にやらせたり、あとで聞いた話では英語の勉強もさせていたみたいで。本当に英語ができるようになったかは知りませんけどね(笑)。
文章を書くっていうのはサッカーノート。もう私がマツダに移籍して来る前から、ミーティングの時には、みんながノートをとっていて、書く習慣はついていましたね。オリエンテーリングも頻繁にやっていて、海や山奥へ行って、自分たちで釣りなどをして食材を獲って来て、食事を作ったりね。そのなかで、何かテーマを決めてグループ活動をやって順番を争ったり、最後にグループごとに発表したりするんですけど、ベテランではなくて、若い人たちに発表させるんです。今や監督、コーチとなっているひとたちが、若いころからそういう経験を積んでいたわけです。そのことがそのまま指導者につながるというわけではないですけど、やっぱり今西さんは喋るということをすごく重視したから、みんなも話すということに関しては上手くなった。何か自分に意見があった時にちゃんと伝えることができていたのは、そういう面が大きかったと思います。
ただ、面倒くさかったですよ、オリエンテーリングとか(笑)。私は「こんなことするより、練習がしたい」って何回も言っていましたから。だけど、今西さんから付き合ってくれと言われるから、「わかりました」って(笑)。
バクスター監督が就任するまでの間にもストーリーがあって、彼が来る前のヘッドコーチはマンチェスター・ユナイテッドの元有名選手だったビル・フォルケス(※マンチェスター・Uで歴代4位となる公式戦通算668試合に出場。2013年没)という人で、マツダ時代には彼の古巣のマンUと試合をすることもあったんです。
ただ、面倒くさかったですよ、オリエンテーリングとか(笑)。私は「こんなことするより、練習がしたい」って何回も言っていましたから。だけど、今西さんから付き合ってくれと言われるから、「わかりました」って(笑)。
バクスター監督が就任するまでの間にもストーリーがあって、彼が来る前のヘッドコーチはマンチェスター・ユナイテッドの元有名選手だったビル・フォルケス(※マンチェスター・Uで歴代4位となる公式戦通算668試合に出場。2013年没)という人で、マツダ時代には彼の古巣のマンUと試合をすることもあったんです。
それで、マンUには当時の主力メンバー相手にも勝ったんだけど、その後に行ったスウェーデンのハルムスタッズというチームには全然歯が立たなかった。すごく良いチームだったんです。その試合を見た今西さんが、当時ハルムスタッズの監督をやっていたバクスターを連れてきたんですよ。みんな、「ああ、あの時の監督だ」って(笑)。
バクスター監督とはよく話したんだけど、彼は最初、やるべきことをきっちり決めようとしていましたね。ただ、私は「それって選手が判断することにならないんじゃない?」と言っていたんだけど、今このチームと若手たちに必要なものはこれで、やり続けることが重要なんだと言って、そこは「何も言わずにやらせてやってくれ」と言っていました。彼の頭の中には描いているものがあって、そこはすごくしっかりしていましたね。それに彼は表現が本当に上手くて、選手を自分の話に集中させるのも上手だった。だから、選手たちも迷うことがなかったですよね。
まだまだ無名の選手が多くて、年下の選手は誰が誰だか知らない選手ばかり。そんな選手たちを今西さんが見抜いて、しっかり教育して基盤を作り、そこへバクスター監督が日本ではあまり馴染みのなかった新しいやり方、教え方でいろんなものを乗せていった。それが、マツダからサンフレッチェ広島というチームに移行した当初の魅力につながっていったような気がします。
まだまだ無名の選手が多くて、年下の選手は誰が誰だか知らない選手ばかり。そんな選手たちを今西さんが見抜いて、しっかり教育して基盤を作り、そこへバクスター監督が日本ではあまり馴染みのなかった新しいやり方、教え方でいろんなものを乗せていった。それが、マツダからサンフレッチェ広島というチームに移行した当初の魅力につながっていったような気がします。
94年のシーズンについて言うと、プレシーズンの時からすごく手応えはあったんです。ブラジルの名門グレミオに1-0で勝って、当時オランダですごく強かったフェイエノールトにも1-2で負けはしたんですが、しっかりボールを持ててゲームも支配できていた。監督や今西さんとも、「これはどこが来ても大丈夫ですね」と話していました。2年目は自分たちでゲームコントロールもできるようになっていて、最初のシーズンとは全然違うチームになっていたので、「必ず優勝を狙える」と言っていましたね。
開幕6連勝したあとに、ヴェルディに0-5と負けはしたんですが、あの試合もこっちが攻めるなかで失点を重ねた試合で、押されっぱなしで負けたわけではなかった。広島のチャンスも多かったし、ちょっとしたミスでやられてしまったんです。ヴェルディはそういうところが上手かった。だから、あの時は1ステージで同じチームと2回当たるんだけど、ヴェルディとエスパの時だけは、相手に合わせたやり方で戦いましたね。
それでほとんど勝ったことがなかったヴェルディに今度はアウェーで4-1で勝って、それまで勝ったことがなかったエスパにも2-1で勝った。その2チームに関しては、完全に相手への対処から始めたやり方で準備をしていました。
そんな中で迎えたジュビロ戦でしたけど、あの頃はほとんど連戦でずっと移動ばかりだったから、身体が軽い試合なんてほぼなかった。それに加えて暑さもあって、そのうえこれに勝てば優勝というのが見えているから、硬くなっている選手も多かったですね。そこは覚悟して試合に入っていましたよ。
開幕6連勝したあとに、ヴェルディに0-5と負けはしたんですが、あの試合もこっちが攻めるなかで失点を重ねた試合で、押されっぱなしで負けたわけではなかった。広島のチャンスも多かったし、ちょっとしたミスでやられてしまったんです。ヴェルディはそういうところが上手かった。だから、あの時は1ステージで同じチームと2回当たるんだけど、ヴェルディとエスパの時だけは、相手に合わせたやり方で戦いましたね。
それでほとんど勝ったことがなかったヴェルディに今度はアウェーで4-1で勝って、それまで勝ったことがなかったエスパにも2-1で勝った。その2チームに関しては、完全に相手への対処から始めたやり方で準備をしていました。
そんな中で迎えたジュビロ戦でしたけど、あの頃はほとんど連戦でずっと移動ばかりだったから、身体が軽い試合なんてほぼなかった。それに加えて暑さもあって、そのうえこれに勝てば優勝というのが見えているから、硬くなっている選手も多かったですね。そこは覚悟して試合に入っていましたよ。
そういう状況だから、あの試合の内容は全然良くなかった。でも、試合をやりながら、延長までいったとしても勝つなとは思っていました。負けたヴェルディ戦がそうだったけど、試合って上手くいってても何かソワソワする時があるし、逆にこのジュビロ戦のようにやりながら落ち着いていってうまくいくこともある。あの時のメンバーもみんなそう感じていたみたいですね。
もちろん、いつも通り自分たちを表現できれば良かったけど、やっぱりミスして先制されましたしね。同点に追いついたのも、練習通りのセットプレーだったから(※39分に高木琢也がヘディングシュートを決める)、本当に苦しい時にイメージした通りのプレーが出たなという感じでした。内容だけを言ったら最悪の試合でしたけど、勝つことだけを考えて集中できていた試合。良い流れで勝利を掴んで(※90分にパベル・チェルニーが逆転ゴールを決める)、優勝に漕ぎつけることができたと思います。
もちろん、いつも通り自分たちを表現できれば良かったけど、やっぱりミスして先制されましたしね。同点に追いついたのも、練習通りのセットプレーだったから(※39分に高木琢也がヘディングシュートを決める)、本当に苦しい時にイメージした通りのプレーが出たなという感じでした。内容だけを言ったら最悪の試合でしたけど、勝つことだけを考えて集中できていた試合。良い流れで勝利を掴んで(※90分にパベル・チェルニーが逆転ゴールを決める)、優勝に漕ぎつけることができたと思います。
1試合を残して第1ステージ(サントリーシリーズ)の優勝を決めた広島。磐田戦の見事な逆転劇で、サポーターとともに歓喜に酔いしれたチームだったが、表彰式後、関係者に大きな衝撃を与える“事件”が発生する。授与されたクリスタル製のチェアマン杯(優勝カップ)を粉々に破損してしまうのだ。当時、テレビ・新聞などで大きく報じられた、この事件も風間氏は笑みを湛えながら懐かしく語ってくれた。
――◆――◆――
当時、世間では誰がカップを割ったんだと話題になっていて、私、森山、森保とか言われていました(笑)。もうみんな知っている話だと思うけど、その当時のトレーナーの方が落として割ってしまった。あのカップがすごい重かったんですよ。普通に持つぶんにはそんなに感じないけど、上のほうに持ち上げると結構重いんです。
それで、セレモニー後にいろんな選手に、そのカップが回っていました。トレーナーにカップが回ってきた時に、スタンドのサポーターがカップを見たいと言って、トレーナーが見せるために持っていってあげようとしたみたいなんです。すごく身体能力の高い人だったから、スポンサーの看板をピョンと飛び越えようとした。そうしたらカップが予想外に重たくて、それを抱えて飛び越えきれずにサポーターのほうに向かって落としてしまった。見ていたサポーターたちは「ああーっ!」ってみんな叫んで凄かったらしいです(笑)。あれはかなり高価なカップでしたからね(笑)。
後日、そのカップは作り直してもらったんだけど、まだホームのファンにはお披露目ができていなかったから、ファンとの集いが行なわれた時にそれを見せる機会があったんです。それで新しいのを持ったんだけど、やっぱりめっちゃ重たい(笑)。私はキャプテンだったから持って歩かなきゃいけないんだけど、もう持って歩くのが嫌だからいろんな選手に「持って」と言うと、みんないつもは言うことを聞いてくれるのに、誰も言うことを聞かない(笑)。「嫌です、嫌です!」ってみんな拒否するから、結局自分でずっと持って歩くはめになって……。
――◆――◆――
当時、世間では誰がカップを割ったんだと話題になっていて、私、森山、森保とか言われていました(笑)。もうみんな知っている話だと思うけど、その当時のトレーナーの方が落として割ってしまった。あのカップがすごい重かったんですよ。普通に持つぶんにはそんなに感じないけど、上のほうに持ち上げると結構重いんです。
それで、セレモニー後にいろんな選手に、そのカップが回っていました。トレーナーにカップが回ってきた時に、スタンドのサポーターがカップを見たいと言って、トレーナーが見せるために持っていってあげようとしたみたいなんです。すごく身体能力の高い人だったから、スポンサーの看板をピョンと飛び越えようとした。そうしたらカップが予想外に重たくて、それを抱えて飛び越えきれずにサポーターのほうに向かって落としてしまった。見ていたサポーターたちは「ああーっ!」ってみんな叫んで凄かったらしいです(笑)。あれはかなり高価なカップでしたからね(笑)。
後日、そのカップは作り直してもらったんだけど、まだホームのファンにはお披露目ができていなかったから、ファンとの集いが行なわれた時にそれを見せる機会があったんです。それで新しいのを持ったんだけど、やっぱりめっちゃ重たい(笑)。私はキャプテンだったから持って歩かなきゃいけないんだけど、もう持って歩くのが嫌だからいろんな選手に「持って」と言うと、みんないつもは言うことを聞いてくれるのに、誰も言うことを聞かない(笑)。「嫌です、嫌です!」ってみんな拒否するから、結局自分でずっと持って歩くはめになって……。
今の若い人たちはきっと知らない話なんだろうね(笑)。あとで、あのシーンを後ろから撮った写真を見せてもらったけど、サポーターがみんなで「ああーっ!」って、大きな口を開けて叫んでいるんです。サポーターも下りてきて、みんなで破片を集めたりしたのも、今となってはいい思い出になったんじゃないかな。
今のJリーグのカップは全部、金属製になっているけど、たぶんそのことが原因。そういう意味では、それも記録に残るというか、長く記憶に残るシーンになったと思いますよ。
取材・構成●長沼敏行(サッカーダイジェストWeb編集部)
今のJリーグのカップは全部、金属製になっているけど、たぶんそのことが原因。そういう意味では、それも記録に残るというか、長く記憶に残るシーンになったと思いますよ。
取材・構成●長沼敏行(サッカーダイジェストWeb編集部)
森脇良太、盟友に“誘われた”ファウルを槙野が解説 Jリーガー騒然「最近で1番笑った」
広島ユースの同僚で、寮生活も一緒だった森脇と髙萩の“駆け引き”を槙野が解説
浦和レッズの日本代表DF槙野智章が公式インスタグラムを更新。ともに1986年生まれで、同じ年にサンフレッチェ広島ユースに入団し、寮生活も一緒だったというDF森脇良太(京都サンガF.C.)とMF髙萩洋次郎(FC東京)の過去のワンシーンを“解説”している。
「あるプレーに槙野なりの解説をしてみた。そう!! あの名言?迷言?が生まれたシーンだ!!」
槙野が紹介したのは、浦和時代の森脇とサンフレッチェ広島時代の髙萩が対峙した一戦。試合は2-2のまま後半ロスタイムに突入し、コーナー付近でポゼッションする髙萩に森脇がプレッシャーをかけに行くが、ボールとの間に体を入れられてボールを奪えない。森脇は勢い余って髙萩を倒してしまい、ファウルがコール。熱くなった森脇は、副審に「誘ってんじゃん」「わかる!?」とアピールしたが、抗議は受け入れられなかった。
槙野はこの動画に合わせ、絶妙な解説を入れている。
「森脇選手が押した。さぁ、出るか!? 言ってくれ!
「『誘ってんじゃん』、きた。出た!」
「『分かる?』 わかりません笑 そりゃわからないよ」
「皆さんもお気づき 見事に誘いに乗ってしまったのは森脇良太選手でした」
元同僚である槙野と森脇の信頼関係だからこその“イジり”だが、投稿では「森脇選手、高萩選手は共に高校では同じチームで寮生活も一緒で同い年という関係性。2人の見ていて面白い闘いをご覧あれ」と言及。ハッシュタグでも「#皆仲良し」と補足している。
これにはJリーガーたちが続々と反応。ガンバ大阪のFW宇佐美貴史が「最近で1番笑った。笑」とコメントすれば、浦和の同僚DF岩波拓也は「完全に誘われてる」と冷静な分析。元浦和で湘南ベルマーレのMF山田直輝も「誘いに乗ってしまってゴネてる森くん可愛い」と微笑ましく見守っていた。
クラブOBが選ぶ、夢のサンフレッチェベストイレブン MF編 「悩みましたがボランチは森﨑和幸&青山敏弘で決まり!」
Jリーグの試合が見られないこんな時期だからこそ、誰もが考えた!? 夢の企画を展開! 現役時代はサンフレッチェ広島で、ファイト溢れるDFとして活躍し、現在はサッカーコメンテーターとして活躍中の吉田安孝氏に『サンフレッチェ歴代ベストイレブン』を選出してもらった。前回の攻撃陣編に引き続き2回目の今回は、クラブ史においても、名選手揃いのボランチ、そして両ウイングバック編をお届けする。
クラブOBが選ぶ、夢のサンフレッチェベストイレブン攻撃陣編。「FWは佐藤寿人で即決でしょう!」
広島県における緊急事態宣言の解除を受け、サンフレッチェ広島がいち早く練習を再開した。公式戦の再開日は未定ながら、選手にとって大きな前進であることは間違いない。サポーターにとってフラストレーションのたまる時期がもう少し続くが、こんな時だからこそ再開に向けての機運を高める意味で、現役時代はファイト溢れるDFとして活躍したクラブOBであり、現在はサッカーコメンテーターとして活躍中の吉田安孝氏に『サンフレッチェ歴代ベストイレブン』を選出してもらった。初回はFWなど前線の選手をメインにお届けする。
サンフレッチェ広島 青山敏弘選手がマスクを県医師会に
23日、広島県医師会に、サンフレッチェ広島の青山敏弘選手からマスクが贈られました。 「早く感染症の終息に向かってみなさまと一緒に乗り越えていきたいと思っております。」(サンフレッチェ広島 青山敏弘選手) 青山選手は、クラブ関係者を通じて段ボール箱60箱分のマスクを購入して届けました。 「本当に必要なところに必要なものを送りたいと思って、きょう、こうやって形になったのは非常によかったなと思います。」(青山敏弘選手) 「医療従事者の命と地域医療を守るために有効に活用させていただきます。」(広島県医師会 平松恵一会長)
広島25日から全体練習再開、取材時厳格ルールも
サンフレッチェ広島は22日、25日から広島県内の練習場で全体練習(一般非公開)を再開することを決めた。14日までチームは活動休止を続けてきたが、15日からグループ練習で再始動していた。
選手らの取材対応時には、記者とは距離を1~2メートルの間隔を保つなど厳格なルールも設けている。
サッカーができる喜びかみしめて・サンフレッチェ広島、練習を公開
先週から非公開でのトレーニングを開始していたサンフレッチェ広島が、きょう、報道陣に練習を公開。久しぶりに元気な姿をみせてくれました。
【青山選手】
「みんなが努力した結果こうやって集まってグラウンドでプレーできる。それは選手個人だけではなく、家族や周りの人の努力の結果だと思う。本当にみんなの顔を見られてよかった」
チーム活動再開後、初の練習公開となったきょうの練習。先週の4グループから2グループに減らしてのトレーニングとなりました。今週は疲労を考慮してボールを使ったメニュー中心でチーム全体のコンディション向上を目指します。
【城福監督】
「もちろんまだ長い時間するのは難しい。強度的には、いまやれる中で、自分の一番良いものを出すことは意識してもらっています」
【森島選手】
「サッカーできる喜びをかみしめて、良い練習をして、再開できるまでという感じ」
グループ分けでのトレーニングは始まったものの公式戦再開の日程は未だ定まらない状況。それでも再開できるその日を目指し、チームは再び走り始めています。
【青山選手】
「公式戦再開というものが、もしできるとすれば、もちろん全力で皆さんに良いプレーをお届けできるように最大限努力して準備していきたい」
【森島選手】
「最低開幕戦くらいまでのコンディションに戻して、勇気を与えられるプレーをして、なおかつ広島のサポーターに勝つところを見せられたらと思う」
サンフレッチェ広島、歴代ガッカリ外国籍選手5人。Jリーグに適応しきれなかった4大陸の勇士たち
1993年の開幕から28年目を迎えたJリーグでは、数多くの外国籍選手がプレーしてきた。活躍した選手もいる中で、期待を大きく裏切って帰っていった選手も少なくない。今回フットボールチャンネル編集部では、サンフレッチェ広島で活躍できなかった外国籍選手を5人紹介する。
恩師を慕って来日も…
アウレリオ・ヴィドマー(元オーストラリア代表)
生年月日:1967年2月3日(当時31歳)
在籍期間:1998年〜1999年
J1通算成績:24試合出場/6得点
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スタンダール・リエージュ時代の1994/95シーズンにベルギー1部リーグ得点王に輝いた経歴を持ち、当時オーストラリア代表ではキャプテンを務めていた。オランダのフェイエノールトやスイス、スペインでもプレーし、1998年7月に来日を果たす。
在籍期間:1998年〜1999年
J1通算成績:24試合出場/6得点
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オーストラリア代表でも指導を受けたエディ・トムソン監督の下で残留争いを抜け出すための切り札的な活躍を期待されたが、なかなかコンディションが整わず1年目はリーグ戦15試合出場で2得点にとどまった。
翌シーズンも広島でプレーを続けたが、J1リーグ戦で9試合出場2得点と結果を残せず、1999年6月に退団。その後はオーストラリアに戻ってプレーを続け、2004年に現役を引退した。その後は指導者に転身し、アンジェ・ポステコグルー監督の下でオーストラリア代表のアシスタントコーチなどを歴任。現在はシンガポールリーグのライオン・シティ・セイラーズF.C.の監督を務めている。
●1998年Jリーグ2ndステージ第3節:清水エスパルス戦の先発メンバー
▽GK
下田崇
下田崇
▽DF
ハイデン・フォックス
ランコ・ポポヴィッチ
上村健一
ハイデン・フォックス
ランコ・ポポヴィッチ
上村健一
▽MF
柳本啓成
吉田康弘
桑原裕義
山口敏弘
服部公太
柳本啓成
吉田康弘
桑原裕義
山口敏弘
服部公太
▽FW
久保竜彦
アウレリオ・ヴィドマー
久保竜彦
アウレリオ・ヴィドマー
あまりに重かったアフリカンDF
ミシェル・パンセ・ビロング(元カメルーン代表)
生年月日:1973年6月16日(当時28歳)
在籍期間:2002年
J1通算成績:25試合出場/0得点
在籍期間:2002年
J1通算成績:25試合出場/0得点
1998年フランスワールドカップにカメルーン代表として出場した実績を持つ、身長192cm体重90kgの巨漢センターバックだった。空中戦の強さは圧倒的だったものの、見た目通り動きが鈍重でスピードに欠け、サンフレッチェのJ2降格を阻止するほどの活躍は見せられなかった。
ロシアのアンジ・マハチカラからの期限付き移籍だったため、広島でプレーしたのは1年のみだった。2001年にはカメルーン代表の一員としてFIFAコンフェデレーションズカップに出場するため来日していた。当時アンジの前に1999年まで所属していた韓国の城南一和天馬時代に740万ウォン(現在のレートで約74万円)相当の小切手を盗んだ容疑をかけられてクラブから訴えられ、代表チームから追放されたと英『BBC』が報じるなどいわくつきの選手でもあった。
●2002年J1・1stステージ第2節:柏レイソル戦の先発メンバー
▽GK
下田崇
下田崇
▽DF
沢田謙太郎
ミシェル・パンセ・ピロング
川島眞也
駒野友一
沢田謙太郎
ミシェル・パンセ・ピロング
川島眞也
駒野友一
▽MF
梅田直哉
森崎和幸
森崎浩司
藤本主税
梅田直哉
森崎和幸
森崎浩司
藤本主税
▽FW
大木勉
久保竜彦
大木勉
久保竜彦
ガッカリは成績でなく…
ベット(元ブラジル代表)
生年月日:1975年1月7日(当時29歳)
在籍期間:2004年〜2006年
J1通算成績:55試合出場/3得点
J2通算成績:7試合出場/1得点
在籍期間:2004年〜2006年
J1通算成績:55試合出場/3得点
J2通算成績:7試合出場/1得点
ベットが“ガッカリ”だったのは、ピッチ上での成績ではない。むしろ2004年夏の加入直後から2005年にかけて、1年半にわたって攻撃の中心として活躍した。失望を買ったのは退団の要因になった素行面だった。
2006年にミハイロ・ペトロヴィッチ監督が就任してから出場機会が減少していたベットは、同年9月末に知人男性への傷害容疑で逮捕された。事態を重くみたサンフレッチェは、10月5日に契約解除を通告して元ブラジル代表MFを解雇した。
1995年から1999年にかけてブラジル代表にも選ばれ、1995年のコパ・アメリカにも出場した実績を持つ選手ではあったが、日本ではあまりいいイメージを残していない。2003年にはコンサドーレ札幌(現北海道コンサドーレ札幌)に加入するも、ホームシックなどが原因となってわずか3ヶ月で退団していた。
●2005年J1最終節:清水エスパルス戦の先発メンバー
▽GK
佐藤昭大
佐藤昭大
▽DF
駒野友一
小村徳男
西河翔吾
服部公太
駒野友一
小村徳男
西河翔吾
服部公太
▽MF
大木勉
リ・ハンジェ
森崎和幸
ベット
大木勉
リ・ハンジェ
森崎和幸
ベット
▽FW
佐藤寿人
ガウボン
佐藤寿人
ガウボン
ストヤノフの後継者候補
アンテ・トミッチ(クロアチア出身)
生年月日:1983年5月23日(当時27歳)
在籍期間:2011年
J1通算成績:9試合出場/1得点
J2通算成績:43試合出場/2得点
在籍期間:2011年
J1通算成績:9試合出場/1得点
J2通算成績:43試合出場/2得点
サンフレッチェでレジェンドになったミハエル・ミキッチと同じディナモ・ザグレブ出身だが、トミッチは期待されたほどの活躍を見せることはできなかった。2011年に来日してキャンプでのトライアルを経てサンフレッチェに加入するも、負傷の多さも響いてリーグ戦は9試合の出場にとどまった。
もともとは前年限りで退団したイリヤン・ストヤノフの後釜としてリベロ的な起用法が模索されていたようだが、トミッチはどちらかといえばセントラルMF気質で、フィジカルもそれほど強靭ではなかった。サンフレッチェ退団後に在籍した愛媛FCでは、主にセントラルMFとして起用され2シーズンでリーグ戦43試合に出場した。
●2011年J1第33節:大宮アルディージャ戦の先発メンバー
▽GK
西川周作
西川周作
▽DF
森崎和幸
中島浩司
水本裕貴
森崎和幸
中島浩司
水本裕貴
▽MF
森脇良太
青山敏弘
アンテ・トミッチ
山岸智
李忠成
高萩洋次郎
森脇良太
青山敏弘
アンテ・トミッチ
山岸智
李忠成
高萩洋次郎
▽FW
佐藤寿人
佐藤寿人
輝く場のなかった点取り屋
ベサルト・ベリーシャ(元コソボ代表/元アルバニア代表)
生年月日:1985年7月29日(当時32歳)
在籍期間:2018年〜2019年
J1通算成績:6試合出場/0得点
在籍期間:2018年〜2019年
J1通算成績:6試合出場/0得点
欧州ではなかなか輝けなかったが、オーストラリアでは眠っていた才能が開花してAリーグで2度の得点王に輝き、ブリスベン・ロアーとメルボルン・ビクトリーで通算3度のリーグ優勝を経験していた。Aリーグでは歴代最高の外国籍選手ともいわれるほどに評価されていた、生粋のストライカーだった。
しかし、2018年6月に加入したサンフレッチェでは出番に恵まれず、リーグ戦6試合のみの出場で無得点。2年目の2019シーズンは公式戦のピッチに一度も立たないまま、同年8月にクラブとの契約解除が発表された。
基本的にはペナルティエリアの中でのみ力を発揮するタイプで、抜け目ない動き出しや優れたシュート技術が武器だった。しかし、サンフレッチェでは適正ポジションがなかなか見つからず、コンディションも整っていなかったようだ。
サンフレッチェ退団後は永住権を取得したオーストラリアに戻り、Aリーグに新設されたウェスタン・ユナイテッドFCに加入。今季のリーグ戦19試合で14得点を記録しており、衰えない得点力で再び評価を高めている。
●2018年J1第18節:浦和レッズ戦の先発メンバー
▽GK
林卓人
林卓人
▽DF
和田拓也
水本裕貴
千葉和彦
佐々木翔
和田拓也
水本裕貴
千葉和彦
佐々木翔
▽MF
柴崎晃誠
稲垣祥
青山敏弘
柏好文
柴崎晃誠
稲垣祥
青山敏弘
柏好文
▽FW
ティーラシン・デーンダー
パトリック
ティーラシン・デーンダー
パトリック
※ベリーシャは68分からティーラシンに代わって途中出場しJリーグデビュー
【了】
広島のFWドウグラス・ヴィエイラが活動再開に歓喜「サッカーをするだけで、多くの助けになる」
サンフレッチェ広島のブラジル人FWドウグラス・ヴィエイラが活動再開を喜んだ。ブラジル『ランス』が伝えている。
新型コロナウイルス(COVID-19)の影響によりトップチームの活動を休止していた広島。先日政府が発表した広島県の緊急事態宣言解除に伴い、約1カ月半もの中断期間を経て、15日より選手を小人数のグループに分けて活動を再開している。
リーグ中断前の明治安田生命J1リーグ開幕節の鹿島アントラーズ戦では先制ゴールも決めていたドウグラス・ヴィエイラがブラジルメディアのインタビューに答え、活動再開を喜んでいる。
「トレーニングとプレーに戻るのが待ちきれない。Jリーグ再開の日程がまだ決まっていないことは知っているが、フィールドに行ってトレーニングし、僕たちが最も好きなことをするだけで、多くの助けになる」
「この期間は非常に複雑だった。家族の来日は間に合わず、それは重くのしかかった。しかし、僕は状況を完全に理解している。フットボールをはるかに超えるものだ。しかし、日本での感染者増加数は大幅に減っており、神に感謝している」
「本来ならトレーニングスケジュールがあったので難しい。しかし、時には、どんなに困難であってもルールに従う必要があることを理解している」
「休暇中はいつもブラジルのボルタ・レドンダのスタジオでトレーニングしている。彼らは僕がトレーニングを続けるための素晴らしいスケジュールを立ててくれた。僕たちは毎日オンラインで活動していた」
ドウグラス・ヴィエイラは母国ブラジルやスウェーデンのクラブを渡り歩き、2016年の東京ヴェルディ加入を機にJリーグ挑戦。J2通算108試合で37得点を記録し、昨シーズンから広島に加入。明治安田生命J1リーグで25試合に出場して、チーム2位の7得点をマークした。
「本来ならトレーニングスケジュールがあったので難しい。しかし、時には、どんなに困難であってもルールに従う必要があることを理解している」
「休暇中はいつもブラジルのボルタ・レドンダのスタジオでトレーニングしている。彼らは僕がトレーニングを続けるための素晴らしいスケジュールを立ててくれた。僕たちは毎日オンラインで活動していた」
ドウグラス・ヴィエイラは母国ブラジルやスウェーデンのクラブを渡り歩き、2016年の東京ヴェルディ加入を機にJリーグ挑戦。J2通算108試合で37得点を記録し、昨シーズンから広島に加入。明治安田生命J1リーグで25試合に出場して、チーム2位の7得点をマークした。
元サンフレ塩谷選手がマスク寄贈 広島市に8000枚
J1サンフレッチェ広島で3度のリーグ制覇に貢献し、現在はアラブ首長国連邦(UAE)のアルアインに所属する塩谷司選手(31)がこのほど、広島市にマスク8千枚を寄贈した。市によると、市医師会を通じて医療機関で活用してもらうという。
塩谷選手は、知人の医療従事者などを通じて、日本のマスク不足を知った。2012年にJ2水戸から加入し、移籍する17年まで過ごした広島に対して「お世話になったので何か恩返しできないか」とマスクを贈ることにした。
UAEの国内リーグ再開は8月。感染リスクを考慮して日本には戻らず、自宅で読書やトレーニングに励む現状を会員制交流サイト(SNS)で報告している。塩谷選手は「厳しい状況は続きますが、みんなで力を合わせて乗り越えましょう」とのエールを寄せた。
広島がマスク販売発表 夏場対応へ冷感素材を使用も
サンフレッチェ広島は15日、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、オリジナルマスクの販売を発表した。
抗菌マスクと、夏場に対応するため冷感素材を使用したリバーシブルマスクの2種類。23日からサンフレッチェ広島オンラインショップ「e-VPOINT」で発売を開始し、6月中旬頃から発送する。
いじられ監督とやんちゃな選手たち。
2012年優勝の広島は底抜けに明るかった
開幕前の下馬評は、おそろしく低かった。なかには降格候補に挙げる識者もいたほどだ。
無理もない。 2006年途中より指揮を執り、サンフレッチェ広島に魅力的な攻撃スタイルを植えつけたミハイロ・ペトロヴィッチ監督が2011シーズンをもって退任。2012年、広島の新たな指揮官に就任したのは、監督経験のない森保一だったからだ。
Jリーグ黎明期の広島を支えたクラブのレジェンドであり、ペトロヴィッチ監督の下でコーチを務めた経験もある。U−20日本代表やアルビレックス新潟でもコーチとして実績を積んだ。情熱的で生真面目な性格は指導者向きとも言えた。
だが、いかんせん監督としての能力は未知数。43歳の青年監督に多くを期待するのは酷と言えた。
加えて、当時の広島は財政的な問題を抱えており、戦力補強もままならなかった。前年のチーム得点王だった李忠成(→サウサンプトン)が欧州移籍したのをはじめ、多くの外国籍選手やベテランがチームを去った。
無理もない。 2006年途中より指揮を執り、サンフレッチェ広島に魅力的な攻撃スタイルを植えつけたミハイロ・ペトロヴィッチ監督が2011シーズンをもって退任。2012年、広島の新たな指揮官に就任したのは、監督経験のない森保一だったからだ。
Jリーグ黎明期の広島を支えたクラブのレジェンドであり、ペトロヴィッチ監督の下でコーチを務めた経験もある。U−20日本代表やアルビレックス新潟でもコーチとして実績を積んだ。情熱的で生真面目な性格は指導者向きとも言えた。
だが、いかんせん監督としての能力は未知数。43歳の青年監督に多くを期待するのは酷と言えた。
加えて、当時の広島は財政的な問題を抱えており、戦力補強もままならなかった。前年のチーム得点王だった李忠成(→サウサンプトン)が欧州移籍したのをはじめ、多くの外国籍選手やベテランがチームを去った。
一方で新加入は、千葉和彦(←アルビレックス新潟)と石原直樹(←大宮アルディージャ)のみ。戦力ダウンの印象は拭えず、優勝候補に挙げる者など皆無だった(当時、専門誌で広島担当記者を務めていた筆者でさえも……)。
もっとも、そうした負の状況に陥りながらも、選手たちに悲壮感はなかった。
「キャンプの段階から、ある程度やれる手応えはあった」と佐藤寿人が振り返ったように、低い下馬評とは裏腹に、確かな自信を備えてシーズンに臨んでいたのだ。
開幕戦の相手は、前年まで広島を指揮していたペトロヴィッチ監督率いる浦和レッズだった。
因縁のチームをホームに迎えた一戦で、広島は完成度の違いを見せつけて1−0と勝利。「キャンプでやって来たことが間違いじゃなかったと証明できた」と森崎浩司が振り返ったように、この勝利が広島にとってのターニングポイントとなった。
確かな自信を手にした広島は、スタートダッシュに成功。前半戦を2位で折り返すと、第18節で首位に立ち、その後、ベガルタ仙台とのデッドヒートを制して悲願のJ1初優勝を成し遂げている。
もっとも、そうした負の状況に陥りながらも、選手たちに悲壮感はなかった。
「キャンプの段階から、ある程度やれる手応えはあった」と佐藤寿人が振り返ったように、低い下馬評とは裏腹に、確かな自信を備えてシーズンに臨んでいたのだ。
開幕戦の相手は、前年まで広島を指揮していたペトロヴィッチ監督率いる浦和レッズだった。
因縁のチームをホームに迎えた一戦で、広島は完成度の違いを見せつけて1−0と勝利。「キャンプでやって来たことが間違いじゃなかったと証明できた」と森崎浩司が振り返ったように、この勝利が広島にとってのターニングポイントとなった。
確かな自信を手にした広島は、スタートダッシュに成功。前半戦を2位で折り返すと、第18節で首位に立ち、その後、ベガルタ仙台とのデッドヒートを制して悲願のJ1初優勝を成し遂げている。
何より強みとなったのは、森保監督が植えつけた守備力だった。
ペトロヴィッチ監督時代はリスクを負った攻撃を売りとしたが、その分、失点も多かった。しかし、森保監督は前任者の攻撃スタイルを継承しながらも、守備の強化を実現。「簡単に点を獲られない安心感があるからこそ、攻撃も思い切ってリスクのあるプレーができた」と佐藤が言うように、守備の安定が攻撃面にもいい影響をもたらしていた。
この年、広島はリーグ2位の63得点を記録し、失点もリーグ2位の34失点。ロマン派の前任者のスタイルに現実的なエッセンスが加わった「ハイブリット型のチーム」に進化を遂げたのだ。
もちろん、スタイルだけでなく、それを実現しうるタレント力も備わっていた。戦力ダウンしたとはいえ、GKには西川周作、DFには水本裕貴、中盤には森崎兄弟(和幸・浩司)、青山敏弘、高萩洋次郎と、20代中盤から30代前半にかけた脂の乗り切った選手たちが主軸をなした。
ペトロヴィッチ監督時代はリスクを負った攻撃を売りとしたが、その分、失点も多かった。しかし、森保監督は前任者の攻撃スタイルを継承しながらも、守備の強化を実現。「簡単に点を獲られない安心感があるからこそ、攻撃も思い切ってリスクのあるプレーができた」と佐藤が言うように、守備の安定が攻撃面にもいい影響をもたらしていた。
この年、広島はリーグ2位の63得点を記録し、失点もリーグ2位の34失点。ロマン派の前任者のスタイルに現実的なエッセンスが加わった「ハイブリット型のチーム」に進化を遂げたのだ。
もちろん、スタイルだけでなく、それを実現しうるタレント力も備わっていた。戦力ダウンしたとはいえ、GKには西川周作、DFには水本裕貴、中盤には森崎兄弟(和幸・浩司)、青山敏弘、高萩洋次郎と、20代中盤から30代前半にかけた脂の乗り切った選手たちが主軸をなした。
そして、なにより頼もしかったのは佐藤の存在だ。キャプテンとしてチームを牽引し、エースとしてゴールを量産。22ゴールを奪って得点王に輝くとともに、文句なしのMVPを獲得している。
また、新加入の千葉の存在も大きかった。3バックの中央に君臨して相手の攻撃を封じるとともに、卓越したビルドアップ能力を駆使し、攻撃の起点も担った。後方からつないでいく広島スタイルは、この男の加入によって、その質はさらに高まった。
その個性的な面々を、巧みにまとめ上げた指揮官のマネジメント能力もやはり見逃せない。主力を固定した前任者とは対照的に、森保監督は常にチーム全体に目を配り、サブ組にもチャンスを与えた。士気を下げず、モチベーションを高め続けたアプローチこそが、必然としてチーム力の向上につながったのだろう。
優勝を決めた第33節のセレッソ大阪戦では、レギュラーの千葉とミキッチが出場停止となったが、代わって出場した塩谷司と石川大徳が出色のプレーを披露。この年の夏に水戸ホーリーホックから加入した塩谷はこれが3試合目の出場で、石川はこの試合でプロ初ゴールを決めている。経験の少ない選手が大一番で活躍できたのも、森保監督の確かなマネジメント能力を証明する出来事だった。
また、新加入の千葉の存在も大きかった。3バックの中央に君臨して相手の攻撃を封じるとともに、卓越したビルドアップ能力を駆使し、攻撃の起点も担った。後方からつないでいく広島スタイルは、この男の加入によって、その質はさらに高まった。
その個性的な面々を、巧みにまとめ上げた指揮官のマネジメント能力もやはり見逃せない。主力を固定した前任者とは対照的に、森保監督は常にチーム全体に目を配り、サブ組にもチャンスを与えた。士気を下げず、モチベーションを高め続けたアプローチこそが、必然としてチーム力の向上につながったのだろう。
優勝を決めた第33節のセレッソ大阪戦では、レギュラーの千葉とミキッチが出場停止となったが、代わって出場した塩谷司と石川大徳が出色のプレーを披露。この年の夏に水戸ホーリーホックから加入した塩谷はこれが3試合目の出場で、石川はこの試合でプロ初ゴールを決めている。経験の少ない選手が大一番で活躍できたのも、森保監督の確かなマネジメント能力を証明する出来事だった。
その指揮官から最も信頼されていた森崎兄弟は、森保監督のことを「いじれるくらい距離の近い監督」と評す。「ミーティングとかで噛んだりすると、みんなクスクス笑い出す」(森崎和)ほどだったと言う。年齢が近かったことも距離を近くした理由だろうが、選手にいじられる監督など、世界中を見渡してもそうはいないはずだ。
ただし、その距離間の近さがチームに一体感をもたらしたことは間違いない。
「監督は普段はいじられるけど、練習ではピリッとした空気を作ってくれる。そういう雰囲気で最後までやれたから、優勝できたんだと思います」
この年、体調不良からの復活を遂げた弟の浩司は、森保監督の存在こそが優勝の最大の要因だと強調した。
シーズン終盤はプレッシャーからか勝ち点を積み上げられず、足踏みを強いられた時期もあった。対策を講じられると勝ち切れない試合も少なくはなかった。その意味では「最強」のチームとは言えないかもしれない。
ただし、その距離間の近さがチームに一体感をもたらしたことは間違いない。
「監督は普段はいじられるけど、練習ではピリッとした空気を作ってくれる。そういう雰囲気で最後までやれたから、優勝できたんだと思います」
この年、体調不良からの復活を遂げた弟の浩司は、森保監督の存在こそが優勝の最大の要因だと強調した。
シーズン終盤はプレッシャーからか勝ち点を積み上げられず、足踏みを強いられた時期もあった。対策を講じられると勝ち切れない試合も少なくはなかった。その意味では「最強」のチームとは言えないかもしれない。
それでも、この年の広島が筆者にとって「ベスト」と言えるのは、強かっただけでなく、底抜けに明るいチームだったからだ。とにかく、取材に行くのが楽しみで仕方なかった。
千葉と森脇良太の”お笑いコンビ”を筆頭とするおちゃらけ軍団は、ピッチに立てば別人のように頼もしく映った。千葉の活躍は前述したとおり。森脇に至ってはこの年、三度のアディショナルゴールを記録する勝負強さを見せつけている。オフではおふざけが過ぎても、オンではとことん勝負師となる。それは選手も監督も同じだった。
いじられ監督とやんちゃな選手たち——。2012年のサンフレッチェ広島は、明るさと強さが同居した愛すべきチームだった。
千葉と森脇良太の”お笑いコンビ”を筆頭とするおちゃらけ軍団は、ピッチに立てば別人のように頼もしく映った。千葉の活躍は前述したとおり。森脇に至ってはこの年、三度のアディショナルゴールを記録する勝負強さを見せつけている。オフではおふざけが過ぎても、オンではとことん勝負師となる。それは選手も監督も同じだった。
いじられ監督とやんちゃな選手たち——。2012年のサンフレッチェ広島は、明るさと強さが同居した愛すべきチームだった。
サンフレッチェ広島 医療の最前線で闘う人たちに「マスク」とエール
スポーツ界にも大きな影響を及ぼしている新型コロナウイルス。医療の最前線で闘う人たちへ向けサンフレッチェの選手たちがエールを送りました。
感染症指定医療機関の広島大学病院を訪れたのは、サンフレッチェの城福監督を始め、川辺・大迫・荒木・佐々木・青山の5人の選手で、建物の外から患者や医療従事者に何度も手を振ってエールを送りました。
さらに新型コロナウイルスの医療に携わっている人たちに支援と感謝を込めて、マスクやサイン入りユニホームが関係者に贈られました。
【サンフレッチェ広島・城福監督】
「最前線で戦っている方々に対して経緯とエールを送るという意味では自分たちにとっても特別な経験」
【佐々木キャプテン】
「広島の方たちを笑顔にできるようにするのが僕たちにできる最大限のこと。少しずつだと思うがしっかりと準備して皆さんを笑顔にできるよう鍛錬したい」
育成型クラブ構築の真相。駒野、槙野、柏木…代表戦士を輩出できたワケ
「身の丈に合った経営をしなければならない。そうすると、とてもつらい決断でしたが、主力選手を含め年棒が高かった選手を多く放出せざるを得ませんでした。そうして短期的に人件費は落とせたけれども、一方で長期的に考えなければならないとも思いました。ただ主力を放出するだけではなくて、そのなかでサンフレッチェはどういうチームを目指していくのか。当時は組織の柱となる理念がなかったんです。だから、みんなで議論して考えた。そうして、できたクラブ理念が『サッカー事業を通じて、夢と感動を共有して地域に貢献する。そして日本一の育成・普及型クラブを目指す』ことでした」
久保社長は下部組織の強化に着手。就任早々、かねてよりクラブと交流のあった高田郡吉田町(現安芸高田市)により吉田サッカー公園が整備されると、トップとユースの選手が同じ施設で練習できるようになり、その後、広島市内に新しい選手寮も建設。ユースの監督はS級ライセンスを持っている指導者を就かせるなど、アカデミーへの投資は惜しまなかった。
「ユースとJrユースを強くすると決めた時、『7年後に代表選手を出す』ということを目標に掲げたんです。そのために、ユースは全国一を目指し、サンフレッチェユースで『やりたい!」と思える土壌を作ろうと。S級を持っている人がコーチをやっているので、そういう意味では非常にレベルの高い組織になっている。新しい寮を作ったのも、昔のボロボロの寮に父兄を呼んだら、『こんなところに息子は嫌だ』と言われましてね(笑)。『これはいけん!』ということで、新しい寮を建てたんです。その寮でも大事にしていたのは、『サッカー選手である前に、まず社会人たれ』ということ。とにかく勉強をさせるために色んな講師を呼んで、社会人としての基本は身につけさせました」
安心して両親に送りだしてもらった選手たちは、恵まれた環境の下で伸び伸びと成長した。結果として、05年に駒野友一がA代表に招集され、その後も槙野智章や柏木陽介など、広島ユースから多くの選手が日本代表になった。昨季、A代表に選出された荒木も、「(トップチームは)グラウンドの横で練習しているので良いお手本でした」と環境の重要性を説く。
久保は「だんだん実って、育成型クラブのベースが今ではできたんじゃないかなと思います」と胸を張り、そして、こんな想いも明かしてくれた。
「僕は料理人もつけてちゃんとした食事を用意して、息抜きに『ビリヤードをしたい』と言われれば、ビリヤード台も買った。選手とはコミュニケーションもよく取って、オーナーと選手という関係以前に、触れ合う機会を多く持ってきた。本当に”家族的”で、色んな形でサポートするようにしているから、ウチのチームの選手は『居心地が良い』と言うんですよ。だから、離れても帰ってくる。例えば、川辺とか荒木もそうだよね。これからも広島で育った選手たちがもっと増えてくれると嬉しい」
Jリーグによると今季、広島のホームグロウン選手人数はJ1で2位の15人で、チームの半数を超える数だ。ホームグロウン選手とは、12歳から21歳の間、3シーズン自クラブで登録していた選手を指す。つまり、その人数が多い事実は、育成の賜物とも言える。昨季にはユース出身のGK大迫敬介やDF荒木隼人がA代表に選出された。久保の掲げた理念は、年々、実りある成果を出しているのである。
(文中敬称略)
「僕が受けなければサンフレッチェの火が消える」――経営危機のクラブ救った決断の舞台裏【広島|久保会長インタビュー
「僕はサッカーのことは分からん」と最初は断ったが…
「もともとね、サッカーはそんなに興味がなかったんですよ」
優しい笑顔で話を始めてくれたのは、サンフレッチェ広島の久保允誉会長だ。1998年に経営危機に陥っていた同クラブの社長に就任し、見事に立て直した敏腕である。07年の社長退任に伴って会長職に就き、現在まで至るが、その道程にはクラブを構築した様々な重要な出来事があった。
ロングインタビューで余すことなく本音を語ってくれた久保会長の言葉を基に、サンフレッチェ広島の過去・現在・未来を紐解いていく。
――――――――――◆―――――――――◆――――――――――――
広島県出身の久保允誉は、元来は”野球人”である。「野球が好きでね。草野球でチームを作って、他流試合をやったり、色んな芸能人のチームとも試合したり、自分もピッチャーをやって、楽しく野球をやっていた」。そう語る素顔はまさに文字通り野球好きそのもので、「サッカーは小学校と中学校の体育の時間しかボールを蹴ったことない」と笑う。
「思いもしなかった」サッカーに関わることになったきっかけは、株式会社デオデオ(現エディオン)の代表取締役社長として迎えた1997年のことである。
「当時の話ですが、(サンフレッチェの筆頭株主の)マツダさんの業績が一時的に非常に厳しくなったんです。そして、サンフレッチェのスポンサーをやっている事態じゃないと、徐々にサンフレッチェから手を引いていきたいという意向がありました。じゃあ、どこが(メインスポンサーを)受けるの? となって、当時の広島商工会議所の橋口(収)会頭から、『マツダさんがこういう状況なので、マツダさんが後押しをするから、久保さん、受けてくれないか』という話があったんですよ。でも僕は、『いやいや、僕はサッカーのことは分からんし、興行についても、全然、経験がないし、小売業なら分かると(笑)。そういう話をして、よく考えさせてください』と最初は言いました。
それでも一週間後くらいに橋口会頭からまた話があって、藤田雄山さん(当時の広島県知事)、平岡さん(敬/当時の広島市長)、マツダのミラー社長(当時)もあわせた会合が開かれたんです。クラブは債務超過で、『久保さん、こんな数字じゃ受けれんよな』という第一声が藤田知事からあって、みんなでどうサポートするのかを話し合いました。そして僕は、お受けするのであれば、『条件があります』と申し上げました。県・市・経済界の協力、そしてマツダさんにはサンフレッチェへの支援の継続、また、練習着にはスポンサーを入れるからゼッケン(ユニホームの胸スポンサー)を外してほしいとお願いし、それだったらお受けすると申し上げたんです。そうしたら、ミラー社長が『分かりました』と仰ってくれて、他の皆さんも賛同してくれて、サンフレッチェの経営を引き受けることになったんです」
当時の心境を言えば、「ウチが受けなかったら、もう受けるところがなかった。このまま、僕が受けなければ、広島からサンフレッチェの火が消える。これは受けないといけん、ということで『エイヤー!』というような気持ちで受けたんですよ、本当に」と熱い気持ちで一大決心をした時を冗談交じりに振り返る。
「エイヤー!」と半ばやけになったかのような表現で当時を回顧しつつも、翌98年に正式にサンフレッチェの社長に就任した久保は、的確に経営改革を施していった。
サンフレッチェ 森崎浩司が「レジェンド」と呼ばれる理由
森崎浩司はなぜ「レジェンド」と言われているのか。歴史的な双生児Jリーガーというだけではない才能の考察が今回のテーマだ。
広島のMF史上最多得点を誇るアタッカー。大砲の豪快さと電子機器の繊細さを併せ持つ左足の持ち主。吸い付くトラップ。精密極まりないパスやクロスと、技術の高さはもちろんだが、本質的な才能は、彼しかできないコンビネーションの構築能力にある。
広島の黄金時代の基礎を築いたミハイロ・ペトロヴィッチ監督の戦術、いわゆる「ミシャ式」は、個人能力ではなくコンビネーションで守備を崩すのが真骨頂。ただこのやり方はパスの出し手と受け手に続く「3人目の動き」によって相手に驚きを与えないと、得点には繋がらない。この「3人目」の名手こそ森崎浩司であり、ミシャ式はある意味、彼のための戦術とも言えた。
2008年J2第10節の徳島戦はミシャ式発祥の試合。この時、指揮官は新システムの1トップ2シャドーをほぼぶっつけ本番で採用した。ボールと選手の流れを読み込んで「3人目」で動くための予測精度を上げるためには、練習の積み重ねが必要。しかし浩司は瞬時に指揮官の狙いを解読する能力を持っていた。抜群のポジション取りと動きのタイミングでDFのツボを外し、ダントツにうまいシュートで2得点。美しい幾何学模様を演出した彼の2得点がなければ、ミシャ式の興隆とその後の広島が迎えた黄金期はなかったはずである。
2012年アウェーでの首位攻防・仙台戦。青山敏弘から高萩洋次郎(現FC東京)を経由してPA内に送られたその場所に突然現れた浩司に対して、仙台守備陣は無力化。コンビネーションの天才だけに許される芸術性の高いゴールを演出するセンスの塊は、彼以前にも以降にもいない。何度も襲われた病との闘いにも打ち克ち優勝にも貢献した。現在はサンフレッチェのクラブアンバサダーを務める森崎浩司は、オンリーワンの「伝説」なのである。(紫熊倶楽部・中野和也)
森崎浩司(もりさき・こうじ) 1981年5月9日生まれ。広島市出身。現役時代のポジションはMF。177センチ、77キロ。小学2年の時に双子の兄・和幸とサッカーを始める。サンフレユースを経て、00年に広島に入団。3度のJ1優勝に貢献し、04年のアテネ五輪にはU-23日本代表として出場した。16年限りで引退。J通算335試合出場、65得点。17年に広島のアンバサダーに就任。
【J1クラブ別ハットトリック回数ランキング】歴代最多のウェズレイを擁する2位名古屋を抑えて、1位に輝いたのは?
ハットトリックと言えば、まず思い浮かぶのは、中山雅史ではないだろうか。「ゴン」や「隊長」の愛称で親しまれる希代のストライカーは、ジュビロ磐田時代の98年第1ステージで、当時ギネス記録となった4試合連続ハットトリックを達成。非凡な得点力をいかんなく発揮し、最終的には36ゴールを挙げて、その年のMVP&得点王を受賞した。
磐田では中山のほか、高原直泰や前田遼一など優れたFWがハットトリックを複数回記録しているが、これまでの総数は計7人による18回。全体で見ると、横浜と並んで3位タイの数字だ。
2位にランクインしたのは、計13人による20回の名古屋グランパス。選手で注目すべきは、在籍6シーズンの間に、実に7回のハットトリックを達成したウェズレイだろう。サンフレッチェ広島時代の1回を含めれば、歴代最多の8回をマークする点取り屋だ。
栄えある1位に輝いたのは、西の雄、ガンバ大阪。計17人による21回と、僅差で名古屋を上回り、トップを獲得した。達成者は、現在も所属する宇佐美貴史をはじめ、チーム内最多の3回を記録する大黒将志や、05年には33ゴールを挙げてクラブ初のリーグ優勝に貢献し、得点王だけでなくMVPにも選出されたアラウージョらがいる。その他では、エムボマ、マグノ・アウベス、パトリック、プロタソフ、ドロブニャクなど、トップ3の中では最も助っ人が多いのが特長だ。
以下、J1におけるクラブ別ハットトリック回数ランキングのトップ10と、達成者リストを紹介する。
★1位 ガンバ大阪(計17人による21回)
日付 名前(対戦相手)
1993/06/05 永島昭浩(名古屋)
1993/11/20 松波正信(市原)
1994/04/06 山口敏弘(平塚)
1995/06/28 プロタソフ(清水)
1998/04/18 エムボマ(柏)
1998/08/08 ドロブニャク(横浜F)
2000/04/22 小島宏美(福岡)
2002/07/14 マグロン(清水)
2004/10/02 大黒将志(C大阪)
2004/11/06 大黒将志(新潟)
2005/04/23 大黒将志(FC東京)
2005/07/02 アラウージョ(東京V)
2005/09/10 アラウージョ(広島)
2006/03/12 フェルナンジーニョ(C大阪)
2006/03/12 マグノ・アウベス(C大阪)
2006/11/26 マグノ・アウベス(京都)
2007/09/01 バレー(名古屋)
2011/08/20 ラフィーニャ(川崎)
2012/08/25 レアンドロ(札幌)
2014/09/27 パトリック(鳥栖)
2015/06/27 宇佐美貴史(山形)
★2位 名古屋グランパス(計13人による20回)
日付 名前(対戦相手)
1995/07/19 森山泰行(市原)
1996/09/21 岡山哲也(平塚)
1998/11/03 平野 孝(G大阪)
1999/05/29 呂比須ワグナー(浦和)
2001/07/07 ウェズレイ(福岡)
2001/08/25 ウェズレイ(東京V)
2001/11/17 ウェズレイ(市原)
2002/04/06 マルセロ(清水)
2002/07/13 ウェズレイ(市原)
2002/08/07 ウェズレイ(仙台)
2003/11/09 ウェズレイ(横浜)
2003/11/22 ウェズレイ(浦和)
2004/09/23 マルケス(C大阪)
2006/09/30 杉本恵太(大宮)
2007/11/18 ヨンセン(大分)
2010/09/25 玉田圭司(清水)
2012/08/04 田中マルクス闘莉王(神戸)
2016/10/01 永井謙佑(福岡)
2018/08/05 ジョー(G大阪)
2018/08/26 ジョー(浦和)
★3位タイ ジュビロ磐田(計7人による18回)
日付 名前(対戦相手)
1995/06/28 スキラッチ(柏)
1996/05/15 スキラッチ(平塚)
1997/09/20 中山雅史(V川崎)
1998/04/15 中山雅史(C大阪)
1998/04/18 中山雅史(広島)
1998/04/25 中山雅史(福岡)
1998/04/29 中山雅史(札幌)
1998/09/26 奥 大介(市原)
1998/09/26 高原直泰(市原)
1998/10/03 中山雅史(横浜F)
2000/05/03 藤田俊哉(川崎)
2000/11/23 中山雅史(広島)
2001/10/17 清水範久(FC東京)
2002/08/10 高原直泰(仙台)
2002/09/22 高原直泰(FC東京)
2005/07/09 前田遼一(C大阪)
2008/10/05 前田遼一(札幌)
2009/10/25 前田遼一(名古屋)
★3位タイ 横浜F・マリノス(計12人による18回)
日付 名前(対戦相手)
1993/06/26 ディアス(市原)
1993/06/30 ディアス(浦和)
1993/12/08 ディアス(横浜F)
1994/04/13 ディアス(名古屋)
1994/11/09 三浦文丈(名古屋)
1996/11/09 小村徳男(広島)
1997/08/06 バルディビエソ(G大阪)
1997/08/09 サリナス(V川崎)
1998/03/28 サリナス(広島)
1998/11/14 中村俊輔(平塚)
1999/04/10 城 彰二(C大阪)
2003/05/05 久保竜彦(鹿島)
2003/11/22 久保竜彦(仙台)
2005/03/12 大島秀夫(C大阪)
2007/08/11 大島秀夫(横浜FC)
2013/03/09 マルキーニョス(清水)
2018/04/21 ウーゴ・ヴィエイラ(湘南)
2018/07/18 伊藤 翔(仙台)
★5位 浦和レッズ(計13人による17回)
日付 名前(対戦相手)
1994/04/13 福田正博(平塚)
1994/09/21 ルル(清水)
1998/04/29 大柴健二(柏)
1998/08/08 岡野雅行(神戸)
2002/04/07 エメルソン(広島)
2004/04/18 エメルソン(大分)
2004/05/09 エメルソン(新潟)
2004/08/21 永井雄一郎(東京V)
2004/08/21 山瀬功治(東京V)
2004/11/23 エメルソン(柏)
2005/10/15 マリッチ(柏)
2006/08/23 ワシントン(新潟)
2008/07/17 田中マルクス闘莉王(東京V)
2009/11/21 エジミウソン(磐田)
2017/04/07 興梠慎三(仙台)
2017/05/20 興梠慎三(清水)
2018/08/15 ファブリシオ(磐田)
★6位タイ 鹿島アントラーズ(計12人による15回)
日付 名前(対戦相手)
1993/05/16 ジーコ(名古屋)
1993/06/19 アルシンド(名古屋)
1995/08/26 長谷川祥之(G大阪)
1997/04/12 マジーニョ(神戸)
1997/09/20 長谷川祥之(平塚)
1998/04/04 柳沢 敦(京都)
1998/05/05 柳沢 敦(磐田)
2000/04/29 平瀬智行(神戸)
2004/09/18 鈴木隆行(磐田)
2006/03/05 柳沢 敦(広島)
2006/09/24 フェルナンド(FC東京)
2006/12/02 野沢拓也(磐田)
2010/09/18 マルキーニョス(大宮)
2012/10/06 ドゥトラ(FC東京)
2017/09/16 レアンドロ(新潟)
★6位タイ サンフレッチェ広島(計8人による15回)
日付 名前(対戦相手)
1994/05/18 ハシェック(V川崎)
1995/04/12 ハシェック(名古屋)
1995/07/01 ファンルーン(磐田)
1996/09/21 高木琢也(市原)
2001/05/03 高橋 泰(FC東京)
2005/09/18 佐藤寿人(浦和)
2005/11/27 佐藤寿人(神戸)
2006/09/30 佐藤寿人(川崎)
2007/05/19 ウェズレイ(千葉)
2013/05/18 佐藤寿人(甲府)
2013/07/10 佐藤寿人(川崎)
2013/07/31 石原直樹(大宮)
2015/06/20 佐藤寿人(山形)
2015/08/29 ドウグラス(名古屋)
2015/11/22 ドウグラス(湘南)
★6位タイ 柏レイソル(計13人による15回)
日付 名前(対戦相手)
1996/05/04 エジウソン(G大阪)
1996/05/18 エジウソン(磐田)
1998/05/05 ドゥッダ(平塚)
1998/08/08 加藤 望(C大阪)
1999/05/05 ベンチーニョ(市原)
2001/04/29 北嶋秀朗(神戸)
2004/06/26 玉田圭司(C大阪)
2005/07/17 クレーベル(神戸)
2008/10/04 村上佑介(大宮)
2012/06/30 澤 昌克(G大阪)
2012/07/28 工藤壮人(C大阪)
2013/11/30 田中順也(FC東京)
2015/08/16 クリスティアーノ(広島)
2016/07/23 クリスティアーノ(G大阪)
2016/08/27 ディエゴ・オリヴェイラ(川崎)
★9位 川崎フロンターレ(計8人による12回)
日付 名前(対戦相手)
2005/10/15 ジュニーニョ(名古屋)
2006/03/05 我那覇和樹(新潟)
2006/03/11 ジュニーニョ(京都)
2007/08/11 ジュニーニョ(千葉)
2007/10/28 鄭 大世(FC東京)
2009/11/08 レナチーニョ(千葉)
2010/05/05 楠神順平(G大阪)
2010/09/18 ジュニーニョ(湘南)
2012/11/07 レナト(浦和)
2014/09/23 大久保嘉人(大宮)
2015/09/19 大久保嘉人(名古屋)
2017/12/02 小林 悠(大宮)
★10位タイ セレッソ大阪(計8人による10回)
日付 名前(対戦相手)
1995/04/22 バルデス(横浜M)
1998/03/25 森島寛晃(横浜M)
1998/08/08 森島寛晃(柏)
1999/04/03 西澤明訓(柏)
1999/09/18 ファン・ソンホン(神戸)
2001/07/14 真中靖夫(柏)
2004/09/19 大久保嘉人(市原)
2010/12/04 アドリアーノ(磐田)
2011/08/20 播戸竜二(清水)
2011/09/10 播戸竜二(広島)
★10位タイ FC東京(計8人による10回)
日付 名前(対戦相手)
2000/04/29 ツゥット(京都)
2000/07/08 アマラオ(川崎)
2001/11/03 アマラオ(C大阪)
2002/07/14 戸田光洋(広島)
2002/08/03 アマラオ(柏)
2009/05/02 石川直宏(大宮)
2012/05/20 渡邉千真(鳥栖)
2013/09/28 ルーカス(大宮)
2015/09/12 前田遼一(神戸)
2018/04/08 ディエゴ・オリヴェイラ(長崎)
★10位タイ 清水エスパルス(計10人による10回)
日付 名前(対戦相手)
1994/06/11 トニーニョ(G大阪)
1996/04/13 マッサーロ(平塚)
1998/05/09 澤登正朗(神戸)
1998/11/14 アレックス(市原)
2001/10/13 バロン(神戸)
2006/11/23 藤本淳吾(川崎)
2007/10/06 チョ・ジェジン(名古屋)
2010/08/01 ヨンセン(湘南)
2013/08/28 高木俊幸(鹿島)
2013/10/19 伊藤 翔(鳥栖)
構成●サッカーダイジェスト編集部
昨季のJ1で最も若手を起用したクラブは? スイス調査機関の集計で断トツだったのは――
若手を重用するには勇気がいる。経験が豊富でない選手たちを起用し、結果が出なければ、指揮官の立場が危うくなるからだ。だが、たとえミスを犯したとしても、経験を積まなければ若手は育っていかない。
スイスを拠点とするサッカー関連調査機関の『CIES Football Observatory』は5月4日、世界の93リーグ、1292クラブの昨シーズンないし今シーズンを対象に、21歳以下の選手の出場時間割合ランキングを発表した。
リーグ別では、スロバキアの29.0%がトップ。28.8%でニュージーランドとアイルランド、28.6%でエストニアやラトビア、27.9%でオランダのエールディビジが続く。
欧州5大リーグでは、リーグ・アンの15%が最多。9.8%のブンデスリーガ、8.5%のプレミアリーグ、7.7%のセリエAと続き、最も少ないのはラ・リーガの7%だった。
そのリーガをわずかに上回る7.1%だったのが、日本のJ1リーグ(数字は昨シーズン)だ。クラブ別では、22.4%で湘南ベルマーレが最多。2位のサンフレッチェ広島(12.3%)に大きく差をつけている。3位はサガン鳥栖の9.6%。もっとも少なかったのは、1.5%の名古屋グランパスだった。
J1各クラブのU-21選手の出場時間割合は以下のとおり(数字は昨シーズン)。
22.4% 湘南ベルマーレ
12.3% サンフレッチェ広島
9.6% サガン鳥栖
9.0% ガンバ大阪
7.5% コンサドーレ札幌
7.2% 鹿島アントラーズ
7.0% 横浜F・マリノス
6.3% ジュビロ磐田
5.9% 清水エスパルス
5.8% フロンターレ川崎
5.7% ベガルタ仙台
5.4% ヴィッセル神戸
4.8% 浦和レッズ
4.6% FC東京
4.4% セレッソ大阪
4.3% 松本山雅
4.2% 大分トリニータ
1.5% 名古屋グランパス
なお、全クラブでトップに立ったのは、ニュージーランドのウェリントン・フェニックス。93.3%という驚異の数字だ。一方、33クラブが0%を記録。欧州5大リーグではレバンテ、クリスタル・パレス、シェフィールド・ユナイテッド、ウニオン・ベルリンの4クラブが0%だった。
構成●ワールドサッカーダイジェスト編集部
2度の大ケガで苦しんだ本音を吐露。 広島・佐々木翔はどう逆境をバネにしたか
僕はこうして逆境を乗り越えてきた 〜 佐々木翔(サンフレッチェ広島)〜
本来ならば現地まで足を運び、ひざを突き合わせて話を聞くのが礼儀だが、コロナ禍である現状では、そうはいかない。チームも活動自粛中のため、約束の時間になると、事前に聞いていた連絡先にコンタクトを取った。 すぐにいつもと変わらない明るい声が響いてくる。今シーズンよりサンフレッチェ広島のキャプテンに就任した佐々木翔だった。
「最近はほとんど家にいますね。子どもがふたりいるので、子どもたちの気分転換も兼ねて、たまに散歩に出掛けるくらい。人気(ひとけ)を避けて、夜に走ることもありますけど、基本的には体幹とか筋トレとか、家でできるトレーニングをしています」
チームメイトの柏好文とは家が近いこともあり、飲食店でお持ち帰りを頼んだ時には、お互いに差し入れすることもあるという。
「チームメイトとは、たまに電話することもあります。あとは、選手何人かでスマホのゲームを一緒にしているんですけど、オンラインでプレーしながら、ボイスチャットで会話しています。
メンバーは(清水)航平とか野上(結貴)、浅野(雄也)、あとはベガルタ仙台に移籍した(吉野)恭平。(柴崎)晃誠さんも一緒にやっているんですけど、なぜか音声はつなげてくれないんですよね(笑)」
試合や練習だけでなく、ボールすらろくに蹴れない日々が続いているが、佐々木はクラブや周囲に対して「何かできることはないか」と考えていた。
「サッカーをやっている子どもたちは学校に通えないだけでなく、卒団式もできないということ知って、みんな寂しい思いをしているだろうなって感じていたんですよね」
そうしたサッカー少年・少女たちに向けて、チームとしてメッセージを送ったりした。もっと交流を図ることはできないだろうか。家で妻と話していると、アイデアが浮かんだ。
すぐに行動を起こすと、現役を引退して今シーズンから広島のアカデミー普及部コーチに就任した丸谷拓也に連絡した。そして、丸谷がクラブにかけ合ってくれ、広島ジュニアの子どもたちと『zoom』(ビデオ会議システム)を活用して話をする機会が設けられた。
「子どもたちの顔が見られたこともうれしかったですし、普段からこんな真面目にコーチや保護者の話を聞いているのかなっていうくらい、真剣に僕の声に耳を傾けてくれた。
質問も考えてきてくれていたし、何かを吸収してやろうと思ってくれたんですかね。終わったあと、自分もニコニコが止まらなかった」
クラブとしても、佐々木が提案した企画を発展させ、継続している。
彼らだけでなく、みんなが自粛した生活を送り、我慢を強いられている今だからこそ、自身の苦い経験や、それをいかに乗り越えたかを教えてほしい——。そう伝えると、「話をもらった時、僕こそ適任だと思ったんですよね」と返してくれた。
佐々木が挙げたのは、大ケガを負った時期についてだった。
サッカー選手にとってはキャリアを左右しかねないと言われる、ひざの前十字じん帯を、佐々木は2016年と2017年の2度、立て続けに断裂している。
「僕が一番苦しかったのは、間違いなく右ひざ前十字じん帯を負傷したときですね。2回やりましたけど、ひとつのケガでサッカーができない状況が長く続いたというのは、めちゃめちゃ苦しかった」
最初に負傷したのは2016年3月20日、J1リーグ1stステージ第3節で、大宮アルディージャと対戦した試合終盤だった。
「1回目の時は、楽観視していたところもあったんです。時間はかかるけど、必ず戻れるんだと考えて、気持ちを切り替えようとしていたように思います。たとえば、捻挫もそうですけど、リハビリしていけばもとに戻るわけじゃないですか。そう思ってたというか、思おうとしていた。
でも、前十字じん帯は違って。リハビリが進む速度も尋常じゃないほど遅いし、できることの伸び率がちょっとずつしか進まない。それ以上に、最終段階に入ってくると、結局、自分の足が前とは同じ状態には戻らないということを理解したので、それを受け入れるのがきつかったですね」
完治した今も、正座することはできないという。表情こそ見えないが、まるで右ひざを見つめているかのようだった。そして、振り返っていく過程では、今だから明かせるエピソードを思い出してくれた。
「あれは(2016年の)リーグ終盤だったと思います。オペから7カ月経って、メンバー外の練習に交ざっていたんですけど、実はそこでまた、右ひざのじん帯を痛めてしまったんですよね。
病院に行って検査したら、じん帯が半分くらい切れているような状態だって言われて。もう一度、オペするか、保存療法でいくかの選択を迫られたんですけど、そこで僕は筋力でカバーできるんじゃないかと思って、保存療法を選んだんです」
復帰への道のりは一気に後退した。ボールも蹴れていたし、ダッシュもできていた状態から、再びウォーキングからはじめる過程へと逆戻りした。
「年が明けて、オフを返上してトレーニングして、再びダッシュができるようになるまで回復して。そのまま(2017年の)キャンプに突入したんですけど、クリアの練習でヘディングして着地した時、ひざが横に揺れて右ひざの骨が『ガツン!』って何かに当たったような痛みを感じたんです。
それでトレーナーにチェックしてもらったら、『(じん帯が)切れてる』って言われて……。その日は地獄のような1日を過ごしました」
翌日がオフだったこともあり、夜には街中に出掛けてチームメイトと食事をした。みんなが楽しそうにしている姿を見て、自分が再び負傷した事実は告げなかった。
「部屋に戻ってからもみんなと話をしていたんですけど、気を遣われるのが嫌だったので言わなかった。だから、誰にも言わず、翌朝キャリーバックを引いて広島に帰ったことを覚えています」
再びオペを行ない、再び地味で過酷なリハビリを経て、佐々木がピッチに戻ったのは2018年のJ1開幕戦だった。ほぼ2年間、佐々木はシーズンを棒に振ったのである。
「僕自身、メンタル的に落ち込んだ時期もありました。本当に戻れるのかなっていう思いは当然、あるじゃないですか。サッカーができるようになっても、試合に出られなければ意味がないって自分では思っていて。
そんな時に、奥さんが『ちゃんともう1回、試合に出られるって私は信じているから大丈夫だよ』って言ってくれたんです。その言葉には救われましたよね」
1度ならまだしも、2度……厳密に言えば、3度も苦況に立たされた。前進しては後退、光りが見えれば暗闇に突き落とされながら、佐々木はなぜ前に進めたのか。
「今の世の中の状況を考えれば、僕は選手としていられる立場だったから、まだまだ甘い状況だったのかもしれないですけど、やっぱり、その時にできることを粘り強くというか、今やれること、できることに向き合えるかどうかしかないんですよね。だからこそ、自分も今につながっていると思うんです」
復帰してからも、頭の中にある以前の自分のイメージと実際の身体の反応が異なり、それが合致するまでには、かなりの試合数を要したという。
「頭の中では、このタイミングなら足でボールを触っていると思って、足を出すんですけど、その時にはもう相手に先にボールを触られている。だから、復帰して半年くらいは超きつかったですね」
ただ今では、そうした想像と現実の差違も感じなくなったという。佐々木にとって、あの2年間で糧になったものはあるのだろうか。
「よくこの質問をされるんですけど、普段は綺麗に答えているんです。メンタル面だったり、人間としては成長できたって。ただ、本音を言えば、ただの無駄な時間です」
2年という時間があれば、どれだけのキャリアを積めたのだろうか。そう思うのは当然である。
「今は復帰できて、試合にも出られるようになったから、メンタルや人として成長したって言えるんですよね。でも、自分に物足りなさというか、昔の自分との差を感じる時もやっぱりある。そんな時、『今もお前は成長しているんだぞ』って自分に言い聞かせてきたところもあります」
言い換えれば、その2年間を「無駄な時間」と言えるのは、今日の佐々木があるからだ。それだけの努力と研鑽を積んできたからこそ、過去をそう言いきることができる。
「あの経験が将来の何に生きるかって言われても、やっぱり、答えを出すのはすごく難しくて。あの時間があれば、もっとうまくなれたんじゃないかという思いのほうが大きい。それだけもったいない時間だったなって思います。
ただ……あの時も、自分を見失わずにやれることをやりながら耐えられたからこそ、今につながっているというのは間違いない」
人の痛みや苦しみもわかる。きっと、人間としてはひとまわりもふたまわりも成長したことだろう。だからこそ、青山敏弘に代わり、今シーズンから広島のキャプテンに指名されたように思う。
これまでも、これからも、今やれるべきことをやり続ける。その先に、きっと答えはある。
広島MF野津田「身ぶり手ぶりで」オンライン交流会
サンフレッチェ広島は3日、オンライン会議システムを利用し、選手らが同クラブのスクールに所属する小学生と交流イベントを行った。この日は企画立案者の主将DF佐々木翔(30)ら選手とスクールコーチが5組に分かれて、小学生から質問などを受けた。
イベント後、代表で取材に対応したMF野津田岳人(25)は「すごく有意義な時間だった。僕も(下部組織所属の)中学時代にプロ選手が会いに来てくれ、モチベーションになった経験がある」と振り返った。
野津田は中学時代から広島ジュニアユースに入り、ユース時代も得意の左足で数々のタイトルを獲得。Jリーグでは通算143試合17得点の成績を残している。
小学生からはインサイドキックの蹴り方を聞かれたといい、「口で伝えるのは難しい。カーブの蹴り方も身ぶり手ぶりで伝えました。子どもたちがサッカーが好きなんだと思い、うれしい気持ちになった。僕も子どものあこがれの選手になりたい。夢を持ってくれればうれしい」と喜んでいた。
新型コロナウイルスの影響で現在、トップチーム以下、下部組織のユース、ジュニアユース、ジュニア、スクールのすべての活動を休止している。トップチームは現時点で6日までの休止が発表されているが、その先は未定。
現在、自主練習にとどまる野津田は「ランニングやボールを蹴ることはしている。家ではサッカーの試合を見たり、サッカーのゲームをしたりして、ストレスはそんなに感じていない。あとは実際にサッカーができれば」と前向きな姿勢を見せていた。
サンフレッチェ広島、歴代最強外国籍選手5人。ハシェック、ストヤノフ、ミキッチ…親日家たちと歩んできた歴史
引退後はチェコに日本食レストランを開店
イワン・ハシェック(元チェコ代表)
生年月日:1963年9月6日(56歳)
在籍期間:1994年〜1995年
J通算成績:83試合出場/42得点
在籍期間:1994年〜1995年
J通算成績:83試合出場/42得点
母国の弁護士資格も持つインテリは、チェコやフランスでセントラルMFとして、チェコ代表では右サイドバックとしてもプレーしていたが、日本ではストライカーのイメージが強いだろう。サンフレッチェ広島加入初年度の1994年はリーグ戦で19得点を挙げ、1stステージ優勝に大きく貢献。1995年にはリーグ戦で11得点、さらに天皇杯準優勝においても重要な存在だった。
小柄ながら空中戦に強く、ポストプレーにも長ける稀有な特徴を持ち、パンチ力あるシュートから数々のゴールを奪った。1996年にはジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)に移籍し、シーズン途中まで在籍したのち、1997年に母国の古巣スパルタ・プラハで現役引退を表明した。
その後はスパルタ・プラハでスポーツディレクターを務めたほか、監督として欧州や中東、アジアを渡り歩き、2004年にはヴィッセル神戸も率いた。Jリーグ25周年を記念してインタビューを受けた際には、母国チェコに日本食レストランをオープンしたことも明かしている。
●1994シーズンの基本先発メンバー
▽GK
前川和也
前川和也
▽DF
森山佳郎
柳本啓成
佐藤康之
片野坂知宏
森山佳郎
柳本啓成
佐藤康之
片野坂知宏
▽MF
ノ・ジュンユン
森保一
風間八宏
パベル・チェルニー
ノ・ジュンユン
森保一
風間八宏
パベル・チェルニー
▽FW
イワン・ハシェック
高木琢也
イワン・ハシェック
高木琢也
韓国でスパイ扱いされても…
ノ・ジュンユン(元韓国代表)
生年月日:1971年3月28日(49歳)
在籍期間:1993年〜1997年
J1通算成績:215試合出場/43得点
J2通算成績:33試合出場/5得点
在籍期間:1993年〜1997年
J1通算成績:215試合出場/43得点
J2通算成績:33試合出場/5得点
ノ・ジュンユンは韓国代表として初めてJリーグでプレーした選手だが、当時の日韓関係は今よりも険悪で、風当たりは強かった。代表活動中は日本側に通じるスパイ扱いも受けたという。彼にとって日本への移籍は自らの力を試し、成長するためのステップアップだった。
韓国で嫌われても広島では愛され、チームに欠かせない選手として活躍した。豪快な突破力で高木琢也やハシェック、パベル・チェルニーと強力な攻撃ユニットを形成。在籍2年目にはリーグ戦10得点、3年目は13得点を挙げ、2年連続で二桁得点を達成している。1995年の天皇杯準優勝にも大きく貢献した。
1994年アメリカワールドカップのアジア最終予選中、複数チームが宿泊する合同宿舎では広島のチームメイトだった森保一ら日本代表選手たちにキムチなどの差し入れをしたことでも知られる。その後、ワールドカップには1994年と1998年の2度にわたって出場した。
広島退団後はオランダに渡ってNACブレダでプレーし、セレッソ大阪やアビスパ福岡でも活躍。Jリーグでは通算248試合に出場した。
●1996年1月1日:天皇杯決勝・名古屋グランパス戦の先発メンバー
▽GK
前川和也
前川和也
▽DF
小島光顕
柳本啓成
上村健一
小島光顕
柳本啓成
上村健一
▽MF
笛真人
桑原裕義
路木龍次
ピーター・ハウストラ
森保一
笛真人
桑原裕義
路木龍次
ピーター・ハウストラ
森保一
▽FW
ノ・ジュンユン
高木琢也
ノ・ジュンユン
高木琢也
監督として古巣・広島を破りACL制覇へ
トニー・ポポヴィッチ(元オーストラリア代表)
生年月日:1973年7月4日(46歳)
在籍期間:1997年〜2001年
J1通算成績:87試合出場/13得点
在籍期間:1997年〜2001年
J1通算成績:87試合出場/13得点
1992年バルセロナ五輪に出場したU-23オーストラリア代表で指導を受けたエディ・トムソン監督に請われ、1997年に来日を果たすと、4年にわたって最終ラインの主軸を担った。特に上村健一や同胞のハイデン・フォックスと組む3バックはJリーグ屈指の堅牢さを誇り、1990年代終盤の広島を力強く支えた。
類まれなリーダーシップでチームを統率し、PKキッカーを務めるほど周囲からの信頼も厚かった。広島退団後はイングランドで活躍し、クリスタル・パレスの一員としてプレミアリーグでのプレーも経験。オーストラリア代表としても2006年ドイツワールドカップに出場した。
現役引退後は指導者に転身し、ウェスタンシドニー・ワンダラーズの監督時代には小野伸二や高萩洋次郎、田中裕介、楠神順平といった日本人選手を次々に獲得したことでも知られる。そして2014年、ウェスタンシドニーを率いて古巣の広島とAFCチャンピオンズリーグのラウンド16で対戦し、2戦合計スコア3-3ながらアウェイゴール差で勝ち上がると、そのままオーストラリア勢としては初めてアジアの頂点に立った。
●1999シーズンの基本先発メンバー
▽GK
下田崇
下田崇
▽DF
ハイデン・フォックス
上村健一
トニー・ポポヴィッチ
ハイデン・フォックス
上村健一
トニー・ポポヴィッチ
▽MF
沢田謙太郎
森保一
服部公太
山口敏弘
藤本主税
沢田謙太郎
森保一
服部公太
山口敏弘
藤本主税
▽FW
久保竜彦
高橋泰
久保竜彦
高橋泰
引退後は広島や山口で活動
イリヤン・ストヤノフ(元ブルガリア代表)
生年月日:1977年1月20日(43歳)
在籍期間:2007年〜2010年
J1通算成績:118試合出場/6得点
J2通算成績:58試合出場/4得点
在籍期間:2007年〜2010年
J1通算成績:118試合出場/6得点
J2通算成績:58試合出場/4得点
ジェフユナイテッド千葉で2シーズン半プレーするも、アマル・オシム監督と対立して契約解除となり、2007年夏に広島へやってきた。そのシーズンはJ2降格となってしまうも、残留を選び1年でのJ1復帰に貢献した。
広島では加入当初こそ中盤で起用されていたが、主に3バックの中央で活躍。柔軟なテクニックと卓越したフィード力を武器にするリベロとして輝いた。2011年にはJ2のファジアーノ岡山でプレーするも、負傷の影響でコンディションが上がりきらず、その年限りでスパイクを脱ぐ。
現役引退後は日本に残って2012年から広島でレストランを経営しつつ、指導者としても活動している。2014年には広島の店を閉めて拠点を山口県に移し、レストランのプロデュースや自ら設立したFCストヤノフアカデミーを運営している。
●2008シーズンの基本先発メンバー
▽GK
佐藤昭大
佐藤昭大
▽DF
森脇良太
イリヤン・ストヤノフ
槙野智章
森脇良太
イリヤン・ストヤノフ
槙野智章
▽MF
リ・ハンジェ
青山敏弘
森崎和幸
服部公太
高萩洋次郎
森崎浩司
リ・ハンジェ
青山敏弘
森崎和幸
服部公太
高萩洋次郎
森崎浩司
▽FW
佐藤寿人
佐藤寿人
クロアチアに日本風スイーツ店をオープン
ミハエル・ミキッチ(クロアチア出身)
生年月日:1980年1月6日(40歳)
在籍期間:2009年〜2017年
J1通算成績:227試合出場/8得点
在籍期間:2009年〜2017年
J1通算成績:227試合出場/8得点
広島の3度のリーグ優勝はミキッチなくして成し遂げることはできなかった。2009年にディナモ・ザグレブから加入すると、すぐ主力に定着して圧倒的なスピードと献身性を武器に右サイドを制圧。2012年と2013年のJ1連覇、2015年の3度目のリーグ優勝を全て中心選手として支えた。
Jリーグでは通算227試合に出場し、そのほとんどは広島で記録している。キャリア終盤は負傷が多くなり、全盛期ほどのスピードも見られなくなったが、類まれなリーダーシップや豊富な経験は色あせず。2018年に湘南ベルマーレで1年間プレーしたのちに現役を引退した。
その後、母国クロアチアに戻って2019年に日本風のスイーツを提供するカフェをオープン。インタビューなどでは度々日本や広島への愛着を口にする、Jリーグでプレーした外国籍選手の中でも歴代屈指の親日家だ。
●2013シーズンの基本先発メンバー
▽GK
西川周作
西川周作
▽DF
塩谷司
千葉和彦
水本裕貴
塩谷司
千葉和彦
水本裕貴
▽MF
ミハエル・ミキッチ
青山敏弘
森崎和幸
山岸智
高萩洋次郎
石原直樹
ミハエル・ミキッチ
青山敏弘
森崎和幸
山岸智
高萩洋次郎
石原直樹
▽FW
佐藤寿人
佐藤寿人
【了】
海外助っ人Jリーガー、本田圭佑を「アイドル」と大絶賛 「彼はすべてを備えている」
今日の誕生日は誰だ! 4月30日は、鼻血がきっかけでGKに転向した世界最高峰守護神のバースデー
◆マーク=アンドレ・テア・シュテーゲン
【Profile】
出身:ドイツ
誕生日:1992/4/30
ポジション:GK
クラブ:バルセロナ
身長:187㎝
体重:85kg
『今日の誕生日は誰だ!』本日、4月30日はバルセロナのドイツ代表GKマーク=アンドレ・テア・シュテーゲンだ。
ボルシアMGで頭角を現わしたドイツ産GKは、2014年夏にバルセロナに移籍。以来、欧州最高峰のクラブで、足元の技術、シュートストップにおいて高いスキルを披露しており、世代最高GKとの呼び声も高い。とりわけ、2017-18シーズンのリーガエスパニョーラ前半戦では22試合中15試合でクリーンシートを達成した。
そんなテア・シュテーゲンは、ボルシアMGの下部組織時代にフォワードを務めていたが、ある意外な理由があってゴールキーパーを任されるようになった。本人の発言によると、当時チームメイトに鼻血を突然出してしまう選手が居たという。試合中にその選手が鼻血を出した際、テア・シュテーゲンが最後尾に入ることが多く「楽しくなってしまった」そうだ。
また、テア・シュテーゲンはスター選手ながら素朴な性格であることも知られている。バルセロナの自宅周辺では、ラフな服装で“電動キックボード”を乗り回す姿が頻繁に目撃されるそうで、その人柄に親しみを持たずにはいられない。
※誕生日が同じ主な著名人
トーマス・シャーフ(サッカー指導者)
シモーネ・バローネ(サッカー指導者)
ジョン・オシェイ(元サッカー選手)
ファンぺ(サッカー選手/ジローナ)
ラウール・ガルシア(サッカー選手/バジャドリー)
森島寛晃(元サッカー選手)
清水航平(サッカー選手/サンフレッチェ広島)
川浪吾郎(サッカー選手/ベガルタ仙台)
カール・フリードリヒ・ガウス(数学者)
中村昌也(俳優)
佐藤聖羅(タレント/元SKE48)
富澤たけし(お笑い芸人/サンドウィッチマン)
「みんなサッカーが巧すぎて…」。プロ18年目の石原直樹が振り返る"衝撃の時代”
今季、石原直樹が12年ぶりに湘南ベルマーレへカムバックした。2003年にプロのキャリアをスタートさせた湘南(当時J2)でそこから6年を過ごしたのち、大宮アルディージャ、サンフレッチェ広島、浦和レッズ、ベガルタ仙台と、複数のクラブを渡り歩いた。昨季までのプロ17年間で残した成績は、J1・J2通算422試合出場、106得点である。
Jリーグのチャントが熱い!高校野球の応援歌に採用されているJリーグのチャント8曲を紹介
2020.05.01
健大高崎の応援団 *写真は2019年10月27日(日)、秋季関東大会決勝山梨学院戦より
開催が未定の選手権大会。現在も活動自粛の日々を送る選手や関係者が多いだろう。高校野球の試合には、選手のプレーだけでなく、各校の応援も魅力の一つ。趣向を凝らした歌詞や一体感のある振り付けはプレーする選手だけでなく、観ている人々もを鼓舞してくれる。
各応援歌の元ネタの多くは人気歌謡曲や、プロ野球の応援歌、海外の楽曲などから取り入れられている。さらにJリーグのチャントからも採用されており、競技の枠を越えた応援歌もよく耳にする。
そこで今回は印象的なJリーグのチャントをいくつかピックアップし紹介したい。
・Pride(ジェフ千葉)
・SHALALA(ヴィッセル神戸)
・博多の男なら(アビスパ福岡)
・V-ROAD(V・フォーレン長崎)
・カモンロッソ(ロアッソ熊本)
・さあ行こうぜどこまでも(サンフレッチェ広島)
・俺らにできること(ガンバ大阪)
・愛してるぜwe are 〇〇(大宮アルディージャ)
・SHALALA(ヴィッセル神戸)
・博多の男なら(アビスパ福岡)
・V-ROAD(V・フォーレン長崎)
・カモンロッソ(ロアッソ熊本)
・さあ行こうぜどこまでも(サンフレッチェ広島)
・俺らにできること(ガンバ大阪)
・愛してるぜwe are 〇〇(大宮アルディージャ)
高校野球ファンなら一度は耳にしたことがある楽曲ばかりではないだろうか。Jリーグのチャントは吹奏楽の伴奏がなくても成立するのもが多く、爆発的に広がっていったのではないだろうか。
改めて汎用性の高いチャントを生み出した各Jリーグのサポーターの凄さを実感させられる。
広島下部組織が活動休止延長、再開は感染状況踏まえ
サンフレッチェ広島は1日、新型コロナウイルスの感染状況により、下部組織のユース、ジュニアユース、ジュニア、スクールのすべての活動を5月末まで休止することを発表した。現在も休止中だったが、延長の措置をとった。再開には今後の状況を踏まえ、改めて決定するという。
トップチームの活動休止は、既に6日まで延長すると発表しており、7日以降の活動再開についても改めて発表される。
「森保はずっと、監督候補だった」。広島をJ1初優勝に導いた指揮官の就任秘話
永井龍や浅野雄也ら、移籍してきた選手たちが、一様に言う言葉がある。
「広島のような強豪」
「優勝を狙えるチーム」
確かに、21世紀に入ってからの広島は、リーグ戦3度の優勝(2012、13、15年)をはじめとして、ルヴァンカップ(10、14年)、天皇杯(07、13年)それぞれ2度の準優勝、ゼロックス・スーパーカップでは4度の優勝(08、13、14、16年)、クラブワールドカップでは3位(15年)と、結果を残している。一方で、02年、07年と2度の降格を経験し、17年も残留争いを強いられて勝点1差で勝ち残った。危機も少なからず経験している。
広島の財政規模からすれば本来、「強い」チームを作るのは至難の業だ。1997年には経営危機も経験し、高木琢也ら主力選手を放出せざるを得なかった。さらに11年オフ、経営陣は財政健全化を目的とした減資を決断する。その影響もあり、チームのベースをつくったペトロヴィッチ監督との契約延長を見送らざるを得なかった。チーム得点王である李忠成の海外移籍(サウサンプトンへ)やミキッチ以外の外国人選手の退団も認めるしかなかった。他にも、レジェンドというべき服部公太や盛田剛平らベテランもチームを去ることに。
そういう事情もあり、12年の開幕前には多くのジャーナリストや評論家が広島を下位転落と予想。残留争いの主役となり、降格するという予測も少なくなかった。しかも偉大なるペトロヴィッチの後を引き継ぐのは森保一。クラブ創設期のミスター・サンフレッチェと言っていいレジェンドではあるが、監督経験はゼロ。「この人事では、チームの弱体化は避けられない」と怒りを爆発させたジャーナリストもいた。
しかし、クラブ側からの視点に立てば、森保監督就任は決して唐突でも思いつきでもなく、まして減資の影響によるものでもない。03年に彼が仙台で引退した直後、広島に呼び戻し、指導者の道を一から歩ませた。当初はチームを担当させずに育成部門で経験を積ませる。時にはスクールコーチのアシスタントとして、ボール拾いに精を出す日々もあった。05年からは吉田靖監督のもとでU-20日本代表のコーチに就任。07年のU-20ワールドカップでは槙野智章、柏木陽介、平繁龍一の広島トリオらと共に世界の舞台で戦った。ちなみにこのチームには、内田篤人や森重真人、太田宏介や香川真司といった代表で活躍する選手たちも参戦。魅力的なサッカーと明るい個性で人気を集めた。
代表から戻ってきた彼を、クラブはトップチームのコーチとして抜擢。09年までペトロヴィッチの下で学ばせた。翌年から森保は新潟のヘッドコーチに就任するが、いずれは広島の監督として呼び戻すという考え方は微動だにしなかった。彼が広島を離れた後も、コミュニケーションをとり続けていた。
久保允誉会長の言葉である。
「森保はずっと、監督候補だった。U-20日本代表や新潟に彼が行ったのも、武者修行に行ってもらっている感覚。本谷(祐一社長※当時)と話をしていても、(監督候補として)いつも森保の名前がまず、あがった。ミシャに後継監督に相談した時も森保のことを話したのだが、『それは良い選択だ』と言ってくれたんです」
森保自身、オファーを受けた当初は「ミシャさんの後が俺でいいのか」と考えたという。しかし「挑戦したい」という気持ちが逡巡を跳ね返し、ペトロヴィッチ前監督に「広島の監督に就任することになりました」と挨拶を終えたうえで、就任記者会見に臨んだ。
その会見は、11年12月8日に行なわれた。その4年前、広島がJ2降格を余儀なくされたあの日に、森保新監督は記者たちの前に立った。07年のあの時、「誰になんと言われていようと、私はミシャと共にやっていく」と前代未聞の「降格監督続投人事」を発表した久保会長は、森保新監督に対してこんな言葉を贈っている。
「逃げることなく、強い監督であれ。君を選択したのは我々なんだから、責任は我々がとる。思い切ってやれ」
森保監督就任に動いた本谷社長は当時、監督決定のポイントとして「(ペトロヴィッチ監督が築いてきた)攻撃サッカーを継承できる人材であること、そしてやはり人間性ですね。周りからリスペクトされている人物がふさわしい」と語っている。監督経験のなさについても「指導者としての経験は積んでいる」と意に介していなかった。
本谷社長は森保一という人物に対して、絶対的と言っていい信頼を置いていた。現役の時からずっと、その信頼は変わらない。どんな場所に行っても広島への愛情は深く、一方で常に謙虚な気持ちを忘れずに研鑽を続ける姿勢。だらかこそ、生え抜き監督第一号である森保を絶対に成功させねばならない。
その信頼のメッセージこそ、「たとえJ2に落ちたとしても、森保監督は継続する」というサポーターズ・カンファレンスでの言葉だった。
「選手のレベルを考えても、トレーニングの内容を見ても、降格するなんてこれっぽっちも、考えていなかった。それでも敢えて、そういうメッセージを発したのは、クラブとしての意思をサポーターや選手に明確に、伝えるためだった」
森保監督も動いた。チーム全員に対して「一緒に戦ってほしい」と電話で連絡。ペトロヴィッチ監督退任でショックを受けていた選手たちの気持ちを立て直し、前任者時代にチャンスを得られなかった人材、例えば清水航平のような実力者に「やってやろう」という気概を燃え上がらせた。
そのうえでチーム力を詳細に分析し、ペトロヴィッチ監督が築いたサッカーの継続を決めた。守備にはある程度のアレンジを加えるが、基本的には戦術を踏襲する。特に攻撃面では1トップ2シャドーを中心に5枚が前線に並ぶやり方も、可変システムもそのまま引き継いだ。新潟時代から高く評価していた千葉和彦をリベロに抜擢し、ビルドアップを安定させたことも森保監督の工夫ではあるが、それも前任者から引き継いだ「ビルドアップ哲学」を踏襲するためのもの。
これまでの広島は、監督が変わる度にサッカーのコンセプトも変わった。ペトロヴィッチ監督→森保監督となって、広島で初めて「資産の継続」が行なわれた。これこそ、12年に予想外の初優勝を飾った原動力となったのだ。鹿島が20タイトルを獲得したのには様々な要因があるが、大きな力となったのは歴代のチームにしっかりと戦術的な資産の継続が行なわれてきたからだ。世界を見ても、例えばバルセロナにはそういう徹底した継続性がある。瞬間風速でない力の裏側には、継続は絶対に必要。特に広島のような規模のクラブであれば、なおさら必要ではないか。ひとりで試合を決めてしまう強烈な個を招請するわけではないのだから。
12年の初優勝によって、広島には「勝者のメンタリティ」が初めて注入された。ただそれは、08年のJ2時代に確立され、ペトロヴィッチ監督から森保監督へと引き継がれた資産があってこそ、附加された財産だ。そして引き継がれた資産は紆余曲折とアレンジを経ながら、城福浩監督の下での広島にも脈々と活きている。
まさに当たり年。Jリーグの再開後に注目したい東京五輪世代の大卒ルーキーは?
今シーズンのJリーグは”大卒ルーキーの当たり年”です。東京五輪世代ということもありますが、在学中から特別指定として出場経験がある選手を含めて、多くの選手が開幕戦から出番を得て活躍しており、今後の活躍が期待できるタレントも目白押しです。今回はJ1の大卒ルーキーにフォーカスし、再開後の注目選手をピックアップしました。
FC東京はACLで活躍していた安部柊斗(明治大)が手の負傷で開幕戦を欠場しましたが、再開後のJリーグで注目するべきルーキーの筆頭でしょう。同じ明大卒の中村帆高(明治大)は右サイドバックが本職ながら、J1の開幕戦は左サイドバックで先発フル出場を果たし、紺野和也(法政大)がACLに引き続き、途中出場ながら切れ味鋭い仕掛けで存在感を見せました。FC東京の”大卒ルーキートリオ”はそれぞれ、来年に延長された東京五輪のメンバーに割って入るポテンシャルが十分ありそうです。
川崎フロンターレではU-23日本代表の三笘薫(筑波大)と旗手怜央(順天堂大)も途中出場しています。特に後半45分の谷口彰悟からのパスを受けて抜け出した三笘が鋭い切り返しでディフェンスをかわし、折り返しをペナルティエリア内に飛び出してきた旗手が左足で捉えたシーンはゴールにはならなかったものの、大きな可能性を感じさせるものでした。
昇格組の横浜FCでは昨シーズン特別指定選手ながら、左サイドの主力として昇格に大きく貢献した松尾佑介(仙台大)が開幕スタメンを飾っていますが、もう一人、大卒ルーキーとして先発した瀬古樹(明治大)がボランチのポジションから機を見た攻撃参加でクロスのこぼれ球を流し込んで記念すべきデビュー戦ゴールをあげました。
さらにサガン鳥栖ではジュビロ磐田のアカデミー育ちでもある森下龍矢(明治大)が右サイドバックで奮闘し、特に守備ではルヴァン杯の清水戦で猛威を振るったフロンターレの長谷川竜也を封じ、終盤には同じ大卒ルーキーの三笘と激しいデュエルを演じました。
開幕戦では出番がなかったものの、再開後の活躍が期待される大卒ルーキーの一番手は北海道コンサドーレ札幌の田中駿汰(大阪体育大)です。スケールの大きなボランチであり、3バックの中央もこなせるタレントです。守備のデュエルは特筆すべきものがあり、得意と自負する組み立て能力もスピードやプレッシャーに慣れてくれば存在感が際立ってくるはずです。
同じ札幌のMF高嶺朋樹(筑波大)も注目するべきタレントの一人。コンサドーレのアカデミー出身で、筑波大では中盤から三笘薫を擁するアタッカー陣に好パスを配球する存在でした。昨年のユニバーシアードのメンバーでもあった高嶺はボールを奪う能力が高く、そこからファーストパスでチャンスの起点になることもでき、展開力もあります。キャプテンの宮澤裕樹など実力者が揃うポジションですが、プレーの面ではクオリティをさらに加えられる可能性があり、再開後の過密日程で重用される可能性は十分にあるでしょう。
復権を狙う川崎フロンターレには三笘薫と旗手怜央の他にも有望な大卒ルーキーがいます。イサカ・ゼイン(桐蔭横浜大)は昨年の関東大学リーグのアシスト王で、本来はサイドアタッカーとしてもプレーできますが、スピードと運動量を生かしてサイドバックから攻め上がるプレーが期待されます。本人は右サイドが本職と語るものの、キャンプでは左サイドバックでも起用されており、高精度の右足クロスに加えて、左足のバリエーションも増やしていければ出場のチャンスはより増えるはずです。
左利きのセンターバックである神谷凱士(東海学園大)も面白い選手です。左足からの長短のキックは精度が高く、フロンターレが獲得するにふさわしいタレントであることは間違いありません。特に左ウイングに一本で通るワイドな展開は攻撃の幅をもたらす武器です。J3のカマタマーレ讃岐に加入した双子のFW神谷椋士とともに築き上げてきたベースはあると思います。直接的なライバルは谷口彰悟になってくるので、いきなりファーストチョイスになることは不可能に近いかもしれませんが、やはり過密日程の中でチャンスを得られるか期待です。
大分トリニータの羽田健人(関西大)は184cmという体格以上にデュエルで強さを発揮するセンターバックです。ポジショニングの正確性も売りで、オフで裏を取らせることなく厳しい対応ができる。昨年、すでに特別指定選手として参加しており、11月30日のベガルタ仙台戦で、3バックの左としてJ1デビューしました。今季の開幕戦はベンチ入りしませんでしたがポテンシャルはすでに片野坂監督も認めるところだと思うので、三竿雄斗やヴァンフォーレ甲府から加入した小出悠太と言ったライバルもいる中で、いかに成長をアピールできているかがポイントになってきそうです。
J1王者である横浜F・マリノスのGKオビ・パウエル・オビンナ(流通経済大)も来年に延長された東京五輪を目指すタレントの一人。193cmのサイズとバネを生かす、身体的な優位性は大迫敬介(サンフレッチェ広島)や小島亨介(アルビレックス新潟)と言った同年代で先を行くライバルと比較しても明らかで、反射神経も光ります。準優勝したトゥーロン国際の活躍は記憶に新しいところです。
GKに幅広い対応力が問われるマリノスにおいて朴一圭や梶川裕嗣と言った猛者に今年どこまで迫れるか。JFAアカデミー育ちで足下の基本技術は高く、パントキックの精度は主力を争う二人にも引けを取らないものがあります。ハイボールの処理も最高到達点は非常に高く、現在マリノスの不安要素になっている部分を大いに補えるのは魅力的です。
ヴィッセル神戸の山川哲史(筑波大)はアカデミー育ちのホープでしたが、昇格の話を断って筑波大に進学し、文武両道の生活を送った選手。186cmの長身を生かした空中戦やデュエルも魅力ですが、本人が自負するのは声で人を動かせるという部分で、早期から統率力を発揮できる資質は備えています。ヴィッセルにはフェルマーレン、ダンクレー、大崎玲央、渡部博文というセンターバックがいますが、若手選手らしい溌剌とした部分を出しながら、締めるところは締めるというメリハリをうまく出して行ければ、新たな五輪候補として競争に加わっていくことも期待できます。
ガンバ大阪の黒川圭介(関西大)は昨シーズン特別指定として4月のルヴァン杯でデビュー戦ながらアシストを記録。5月のサガン鳥栖戦に出場しています。左足の精度が高く、しかも推進力を生かしながらアウトサイドもインサイドも狙うことができます。宮本恒靖監督が高い位置からのディフェンスを志向する中で、ボールを奪う守備とカバーリングの両面をアピールしていく必要はありますが、再開までにどこまでアピールして出場チャンスを生かしていけるか楽しみな一人です。
厳しい状況下で垣間見えた、サンフレッチェというクラブの底力
新型コロナウイルスの感染拡大を受け、Jリーグが新たに5月末までのリーグ戦、ルヴァン杯の再延期を発表しました。当初はJ3を4月25日に、J2を5月2日に、そしてJ1は5月9日からと、段階的に公式戦を再開させる方向で調整が続けられていました。
ところがウイルスの感染は沈静化するどころか拡大の一途を辿っています。4月7日には東京をはじめ7都府県に緊急事態宣言が出され、広島県でも外出自粛要請が出されました。
現状では4月25日~5月27日に開催予定だったJ1~J3のリーグ戦とルヴァン杯の公式戦123試合の延期、そして5月30日以降の日程は白紙となりました。選手たちからすれば試合をやりたいのにできないという、もどかしさもあるでしょう。再開に向けて動き出していたところだけに、モチベーションを保つのが本当に難しいと思います。
ただ、その中でも選手たちは本当によくやっていると思います。私も何度か練習を見てきましたが、メンタルの部分でも本当に頑張っています。誰も経験したことがない、非常に難しい調整を強いられる中サンフレッチェの選手は、しっかりとピッチに立って笑顔で練習に臨んでいました。
これはサンフレッチェというクラブの伝統というか、本当に根がマジメな選手の良い部分がはっきりと出ています。一人ひとりが素直でマジメな点は、昔から脈々と今の選手たちに受け継がれています。こういう状況下だからこそ、逆にクラブとしての良さ、強さが浮き彫りになった気がしますね。
これまでも負けが込んでチームの状態が落ちそうなときでも、グッと一つになって悪い状況を乗り越える力があるチームでしたし、今回の件で、さらにその思いが強くなりました。練習の見学が当面中止、そしてトップチームの活動も一時休止となりサポーターの方も心配されていると思いますが、選手たちはやるべきことをやっています。その部分では安心してほしいと思います。
アスリートにとって本当に厳しい状況ですが、こればかりは仕方ありませんし良い意味で諦めが必要です。「もうダメだ」という放り投げる意味での諦めではなく、良い意味で状況を受け入れて気持ちを切り替えるということです。頼もしいのは選手たちがこんな状況下でも状態を上げていることです。各自がさまざまなポジションができるように取り組んでいますし、野津田などはボランチで、ものすごく良い仕事をしていました。
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